名前は「授かる」と言う。
いくつかTwitterでツイートしていたことなんだけども、ボク自身も学びが多かったことなので、あらためて
「ネーミングを考えること」について
まとめておこうと思う。
さかのぼって、一昨日のこと。ボクが勤めているトゥモローゲートにやってきたインターン生が、ある商品のネーミングを考える課題に取り組んでいた。ボクはそのフィードバックを担当。短い制限時間の中、必死に考えてきてくれたプレゼンを聞きながら、最近の学生はすごいなぁなんて思いながら、
「過去最高のネーミングはなんですか?」
なんて質問を、フィードバック後にインターン生から受けるんじゃないかなということが一瞬、アタマをよぎった。その一瞬でも気になりだすと、もう答えを見つけるしかなくなるのが、ボクの悪い癖。インターン生がプレゼンしてくれている横で、うんうんうんうん考えていた(失礼だぞ、集中しろ)。でも、その脱線のおかげで「あぁ、そうだなぁ」って納得できる、ひとつの答えにたどり着けた。
その答えは「こどもの名前」だった。
息子の名前は「漱一郎」というのだが、名付けるときは、本当に、本当に悩んだ。「どんな人に育ってほしいか」「どんな未来を歩んでほしいか」。親としての初めてのつとめで、わからないなりに、必死に、必死に考えた。そんな過去が想起されてきたのだ。
「当時の想い、経験をインターン生に伝えてあげよう」
フィードバックがまとまった瞬間だった。もちろん、書いてきてくれたネーミングについて、コピーライティングの観点からフィードバックをしてあげることも大切だ。でもね。一昨日課題を考えてくれていたインターン生が、将来、コピーライターやプランナーみたいな職業に就くかどうかなんて、正直ボクにはわからない。「ネーミングを考える」。そんな仕事に出くわす可能性なんて、コピーライターであるボクでも滅多にない。一生に何度あるかの世界だと思う。
だったら今この時点では、テクニックを教えてあげることよりも、名前を書く姿勢を伝えてあげることが役に立つのじゃないかと考えたのだ。
ネーミングを考えることは「この子の名前を考えてください」ということ。
わが子だったら決してそんな依頼はあり得ないけれど、それと同等の熱量で、キミのもとに依頼はやってきているということ。その人が心から愛しているものなら、決していじるなんてできないということ。こどもと商品、違うものに見えるかもしれないけど、大切なエッセンス、姿勢が「こどもの名前を考えること」には詰まっているなって思えたのだ。(偏見だけど、依頼されたらキラキラネームはつけずらいでしょ?)
こどもの名前に込めるものは、親としての「願い」だ。それ以外ない。
その姿勢で取り組めば、イマイチなネーミングなんてきっと出てこない。他人のお子さんの名前の由来を聞いて「しょぼい」なんて、思ったことない。どの名前も、愛されて生まれてきたことを証明している。そんなの、馬鹿になんてできやしないのだ。
名前は「授かる」と言う。
生命を「授かる」と重みは変わらないと思う。物心ついたときには、もう決まっている名前。ひとつの道すじをつけてあげるのは、親であり、ネーミングを考える人なのだ。あふれんばかりの愛情を、短い文字数の中に詰め込んであげよう。この世のどこかで、その名前が使われていたり、呼ばれているシーンにでくわしたら、きっと泣けちゃうよ。ボクは、入園式で「吉本漱一郎くん」と園長先生に呼ばれて「はい!!」と返事をする息子の姿を見て、なんか泣けたよね。お友だちから「そういちろうくん」と呼ばれている光景を見て、なんか安心したよね。ちゃんと生きてるって。
ちなみに、漱一郎の「漱」には「すすぐ」という意味があります。神社に行ったときにお酌で水をすくって口を清める、あれです。口が清潔だと、きっと健康だ。口が清らかだということは、言葉が綺麗な人になって欲しい。そんな思いでつけました。
今では想いに反して、「う●こ」とか「うるせぇ」とか、小学生特有の下品な言葉が大好きな小学生に育っちゃってます。親の願いはどこへやら。でも、ひとを傷つけられない、やさしすぎるくらい、優男に育っています。
名前って、いいね。短い文字数の中に、いろいろ詰まってる。
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