かみさまへのレポート

 私の知人(と言っても差し支えない仲ではあると思っている。友人と断言するには、まだまだ遊べていないなぁと思うのだが)に、かみさまが居る。

 戻るのは待ってくれ、そんな宗教的なヤバい話じゃない。


 彼は、自分をかみさまと自称し、私たち人間のことを「かわいそうなちいさな存在」で、「だからこそ見守ってあげないといけない」と言った。

 ほぼ初対面くらいの時から言われていたが、話す回数を重ねれば重ねる程「なるほどこの人はかみさまなんだなぁ」と納得できたのだ。

 では、何を持って私は彼を「かみさま」と納得したのか。

 慈しみを持ち、人間の矮小さを大変だなぁと緩く笑っている姿とか。
 かと言って全てをむやみやたらに救うのではなく、この人間は、と選んだ人間に手を差し伸べる様とか。

 かみさまとしての彼の振る舞いは、なるほど確かにかみさまだったのだ。

 こんなことを言うとかみさまに「ちょっとちょっと」と怒られるかもしれないが、かみさまはとても優しい。
 かみさまと呼んではいるが私にとっての信仰する神様ではないのだが(もはや、かみさま、というのが彼に対する文書上の呼称であるまである)異教の徒である私にも優しい。

 押しつけがましいわけではなく、困っていると声を上げた時に上手に掬い上げて聞いて、道筋を立ててくれる。
 本当に参ってしまって考えがぐるぐるしている時、「告解してもいいですか」と話を切り出して悩みを聞いて貰ったことがある。
 私にとっての神様ではないが、かみさまであることは、私の信仰心とは関係のない事実だなぁと思うのだ。


「かみさまをかみさまだと認識したら、それを『かみさま』以外何と呼べばいいんです?
神を自認していた貴方は、信者となった人から神と他認識されたことで『かみさま』である像を得たのです。私は吟遊詩人ですね、様々な神の元を渡り歩いて言葉を綴るのみなので」


 これは、彼を信じる存在を得た彼に、私が投げた言葉である。

 かみさまを自称していた彼は、信徒を得て、真の『かみさま』となった。

 それを見守る立場を許される私としては、吟遊詩人さながらに、色んな神々のすばらしさを、口頭で、文章で、綴り残していく日々である。


 はっぴーばーすでー、かみさま。

 願わくば、あなたとあなたの信徒が、幸いと実りに満ちた一年となりますように。また話して遊んでやってくださいね。 吟遊詩人のかんてんより

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