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終戦の日の放談

これからいつも通り、エロいことか、男女のことでも書こうとしていた。

さっきは妻のことを書こうと思っていた。他にも、オーストリアから一時帰国した友人の話、久々にバーレスク東京に行った話、都合のいい女の続編、パパ活小説の続きなど、書きたいことは山ほどある。

子どもがようやく寝て、明日締切の原稿も書き終えて、noteを書く前にタバコを買おうと車に乗ってエンジンをかけると、「今日は 8月15日、終戦の日です」とのアナウンスが流れた。

いつも通りのことを書けなくなってしまった。そうか、今日は終戦の日だったか。

終戦の日について書くなんて、どうかしていると思うが、コンビニへの行き帰りで書きたいことが浮かんでしまった。もともとnoteを書く気分だったので、他のことに手を付ける気にもなれない。

なんなら、いっそのこと、日常では決して言えない、どこにも書けないような放談を書いてしまおうと思った次第。


政治向きの話はしないという常識


政治向きの会話がタブーになってから、どのくらいになるだろう。ニュースも扱う会社にいるのに、そんな話をする機会は皆無である。政策の話や政治家の話はするが、政治の話はしない。

仕事として、会議の席で、ああだこうだは言う。しかし、単なる仕事の一環としての情報分析であって、その席ですら、個人の見解は述べないように、みんな気を付けている。意見なんて、一切ないかのようだ。

ロシアのウクライナ侵攻が始まった時だって、みんな仕事以外では「ウ」の字も言わなかった。飲んでべろんべろんのときもそうだった。もちろん、僕も日常では一切言わない。

(「なんてことしてくれたんだ」「ゴルゴ雇おうぜ」などの話はした)

20年ほど前まではそうではなかった。その頃の50代・60代は、そういう話をよくして、若い連中も議論をふっかけられたり講釈をされたりした挙句、「そんなことも知らんのか」「意見もないのか」などと、説教されたりしたものだし、飲み会の席で大先輩同士が議論極まって喧嘩することもよくあった。

当時はいい加減にしてくれ、そんなイデオロギーめいた話ばかりするなと思ったものだが、全くなくなり、みんな何も考えていないかのように一様に口をつぐむと、それはそれで異様である。

「常識ある大人なら政治の話はしない」という自己規制が効きすぎて、少々気持ちが悪い(集まってそればかり話している人達も気持ちが悪いが)。


「終戦の日」とは何だろう


今の日本において、戦争の話ほど、タブー視されているものはないだろう。1990年代の河野談話から安倍さんの「戦後レジームからの脱却」に至る過程の不毛な論争で、少し関心のある人もみんなすっかり疲れてしまった。

20年ほど前までは、終戦の日のテレビは戦争特番だらけだったが、今ではNHKを除けばほとんどやっていないのではないか。

何度も言い古されてきたことだが、終戦の日にはいつももやもやする。

そもそも「終戦」とは何だろう。

戦争が終わった日。主語がない。

戦争を始めたのは日本である。そして、終わったどころか、負けて終わらされた日である。

「終わらされたのではなく、天皇が終わらせた日だ(だから日本は素晴らしい)」という言説をどこかで読んだ記憶があるが、それならば「天皇が始めた」ということになってしまう。自己矛盾である。

「そんな話は取りあえず於いて、あの悲惨な戦争が終わったことを分かち合い、戦没者を追悼しよう」。趣旨は分かるが、心のもやつきは全く晴れない。ジョン・ダワーみたいに抱きしめられない。

白井聡さんが『永続敗戦論――戦後日本の核心』で、現代日本の姿を「米国に対する敗戦を骨の髄まで内面化する対米無限従属と、一方でアジアに対する敗戦否認」と書いたが、とてもしっくりきた(ただ、白井さんはヤベーやつで、最近の著作は賛同できない)。

白井さんが書いた大筋は、そこまで分かりやすく整理はできなくても、ある程度の人なら分かっているはずだ。どうしようもない現実があるために、言わないだけだろう。そして、言わない方が利益になる。しかし、次第に「話さない」が「考えない」になっていて、終戦の日(沖縄慰霊の日、長崎原爆の日、広島原爆の日なども)が虚しく過ぎていくだけである。

これも使い古された考え方だが、「過ちは繰り返しません」の主語は何だろう。誰が誰に向かって何を言っているのか。


当時の日本と現在のロシア


太平洋戦争前の日本の状況は、今のロシアにそっくりである。

日本人の安全と命、日本の権益を守るために、中国東北部に出兵した。通州事件などいろいろな経緯はあったが、他人の土地である。それに、国際法上のややこしいことはあっても、簡単に言えば中国から強引にもぎ取った権益である。

ロシアも、ウクライナ東部にいるロシア系住民の安全と命を守るために侵攻したと言っている。なぜそこにロシア人がいたかと言えば、旧ソ連時代にロシアがウクライナを支配していたからだ。

ほとんどの国が承認しない「国家」を勝手に建てたのも似ている。ドネツク人民共和国・ルガンスク人民共和国と、満州国の違いは何だろう。

言い分も似ている。

ロシアは、NATOが悪いと言う。「拡大させない」という約束(当時のアメリカ国務長官の口約束だったらしいが、記録にはない)を破り、脅威を与えたのはNATOだ、我々が先に攻撃を受けたのだと言う。

日本も、米英仏蘭が悪いと言った。日本を封じ込めようとしている、自分たちの支配を永続しようと「アジア人のアジア」構想を潰そうとしている、中国の後ろ盾になって日本を攻撃している、自分たちはアジア・アフリカで散々悪いことをしてきたくせに日本だけを悪者にしている、などと言った。

そして、どちらも「追い詰められたうえでの自衛の戦争」と言うのである。

国民の世論や世界観も、そっくりだ。国連でのロシア非難決議が141か国の圧倒的賛成多数で可決されても、松岡洋右が国連を脱退しても、国民の多くは拍手喝采。多数の国からどんなに批判されても、経済制裁を受けても、決して変わらない。むしろ、強硬になるばかり。聞く耳を持たない。

NATOや当時の英米仏には、非がたくさんある。僕はもともとオリエンタリズム研究をしていたので、むしろ欧米には批判的である。しかし、だからと言って、いろいろ散々やった挙句に、一方的に戦争を引き起こしてよい訳がない。しかも「弱く脆弱な相手」を狙って。

こんな状況であったはずだが、そのことは何も語らない。むしろいっそ、胸を張って「悪くない」と言ってくれたほうがすっきりするが、一部のキワモノの人を除いてそれもない。「言っても損するだけ」とうのもあるだろう。後ろ盾のアメリカそのものが完全に戦勝国史観であり、日本は勧善懲悪方式の優等生ということになっている。サンフランシスコ平和条約という足かせがあるし、何より対米追従という国是のもと、すみずみまで支配されているとあってはそれはできないというのもある。


何を思えばよい、どう説明すればよい


ゆえに、主体のない、誰が誰に対して何を思えばよいのか分からない終戦の日が続く。語るのは戦没者・戦争犠牲者の追悼と平和の願いだけであり、あの戦争そのものについては語らない。「軍部」は便利な言葉であるが、そんなものはない。当時の新聞を読めば、ほとんどの国民が敗色が濃厚になるまで強制されてなんかいない。率先して賛同していたのが分かる。日本の犠牲者も多いが、日本による犠牲者も多い。

今日は何を思えばよいのだろう。

大抵の国家の場合、ある重大な意味をもつ出来事からのストーリーがある。アメリカなら建国記念日、インドネシアなら独立記念日、ドイツなら東西ドイツ統一、トルコなら共和国建国、韓国なら光復節。喜びのストーリーだけではないが、国のアイデンティティを規定するストーリーがある。

現代日本の基点は、確実に終戦の日である。しかし、その後のストーリーらしきもの(復興と高度経済成長と平和的発展)はあっても、基点の位置づけが曖昧で、どこか空疎である。ましてや、経済成長がとっくに止まってしまって、頼みの経済力・技術力が相対的に低下しているなか、なおさら空っぽになった。このことが、多くの人達の政治や社会への無関心や主体性の欠如の原因のように思うのである。

何より、子どもたちに説明できるストーリーがない。

このことは将来に悪影響を及ぼすのではないだろうか。自分たちを説明できないということは、主張ができないということである。ことに海外では、ある程度の教育を受けた人なら、自分の国を、アイデンティティ(どんな経緯で、なぜ今ここにあるか)も含めて説明できるのが常識である。

もう「今日」もとっくに進み、もうすぐ朝。きっと、様々な談話、報道を見て、今日ももやもやするだろう。

今日は何を思い、何をしようか。

*  *  *

こんなことを書いてしまったけど、これもオモテでは言えないことだから、多少趣旨に合ってるような気がするので、まあいいか、苦笑。もう寝ます。

※特に何も見ず、推敲もしていないので、細かい事実関係はご容赦を。




ネットで検索したら「ネット乞食」という言葉に出くわしました。酷いこと言う人、いるなー。でも、歴史とたどれば、あらゆる「芸」は元々「乞食」と同根でした。サーカス、演芸、文芸、画芸しかりです。つまり、クリエイトとは……、あ、字数が! 皆様のお心付け……ください(笑) 活動のさらなる飛