天国はあなたの名前である(2)
「幼妻、何歳なんですか」
「十四歳」
「ハァ!?」
「幼妻じゃない。息子」
「……なんだ、課長の冗談ですか。何言ってんだあの人」
隣の席の後輩が苦笑いをする。笑えなかった。息子と言っているのはただ言っているだけのことで、親友だったという「ことになっている」「猫」についての記憶はとても曖昧で、それが実際起こったことなのかどうかもわからなかった。おれは柊の目に酔っていただけだったのかもしれなかった。
ともかく柊はおれの家に居ついた。
「行くところがないのか」と尋ねると、「ないわけではないけど」と柊は言葉を濁し、「でも、来たかったんだ、おじさんのとこ。だっておやじ、ずっとおじさんの話してたんだもん。ずっとっていうほどいっしょにはいなかったけどさ。でも、会ったらいつでもおじさんの話をしてたよ。そういうのってどういうかんじなのか、おれちょっと知りたかったの」
「ええと」おれは言葉を、というより、柊が名乗った名前を思い返しながら、慎重に言った。「丸谷(丸谷、丸屋、どっちだろう)は、おまえとはあまり一緒にいなかったのか」
「まあ猫だからね。とうちゃんはどっか行っちゃうもんだよ」
「猫ってのは、そのう、ほんとなの」
「ううーん」柊は唸った。「ほんとだって思わないほうがいいなら、ほんとじゃなくていい。好きなほうでいい」
おれはすこし笑った。
「頭いいな」
「頭いいよ! おれはめちゃくちゃ強くて賢いから、生き残ったんだよ。猫のくらしはねえ、たいへんなんだからね!」
「少なくとも丸谷は死んだわけだ」
「うん。それは信じてもらわないと困る。おやじはおじさんのことがすごーく好きだったから。死体は保健所がもってっちゃったから墓とかないけど、まあ死んじゃったんだなって思ってよ」
「寿司でも取るかあ」
「寿司!」
柊はさながら尻尾をぴんとたてるように背筋を伸ばして身を乗り出した。「築地には寿司がたくさんあるって聞いた! おじさん寿司つくれる?」
「寿司は食いに行くもんだ」
「食いに行く!」
「でも、あしたな。あした……」
「あした! やくそくだからな。あした! 寿司! 筑地!」
「呼び捨てするな」
「おじさんのことじゃないよ」
「天国なんだろ」
うん、と柊は言った。
「天国だよ」
それなら丸谷あるいは丸屋丸家丸野、どれだかわからないがおれの親友とやらは、「築地」にいるのだろう――そこまで考えておれは、ごろりと畳に転がってくつくつと笑った。おれは。
おれの忌々しい名前は、猫の墓だったらしい。
「おじさん寝るの? さむくない? あったかいとこでねないとだめだよ」
そう言う柊の声を聴きながらおれは酒の勢いに任せて、柊が触れてくる指をそのままにした。
おやごさんですか、と聞かれて、はい、と答えた。
そのころには、もう、どれが嘘で、どれがまぼろしなのか、自分でもわからなくなっていた。
おれには丸谷という名前の親友がかつていて、そいつはおれをとても慕っていた。おれのことを、とても素晴らしい、かみさまのような存在だと言っていた。らしい。卵焼きを巻きながら柊は「聞いてたほどいいもんじゃないねえ」と朗らかに言った。
おれはふだんソイジョイの大袋を買ってきてそれを一本一本食べていくことで朝食としていたのだが、柊はまず「人間が食べる朝ごはんなるもの」にやたらにこだわった。柊は図書館に出かけていき、おれの名義で本を借りて(カード作れるわけないじゃない、猫なんだもん)、出汁のとりかた、卵焼きの巻きかた、魚の捌きかた、などを学習した。賢いと自称する通り、柊は覚えがよかった。おれは味噌汁の香りとともに始業に余裕をもって起こされ、朝食を囲んだ。
幼妻、と揶揄されても仕方のないような状況ではあった。
柊は字は読めたが書けなかった。料理はすぐにできるようになったが最初は全く知らなかった。そして何より、柊はおそろしくなるほどの速さで成長した。家に転がり込んできたときはまだあどけない子供だったのに毎日起きるたびにぐんぐん背が伸び、いまはもうはっきりと子供ではなく少年、と呼びたいような風情をしていた。そうして柊は「もう大きいから、仕事をしたい」と言った。
「子供は学校にでも行けよ」
「おれ猫だから学校たぶん行けなくない?」
しかし柊は学校というキーワードを貰ってとても喜んだ。「じゃあ学校に行かせてよ」と繰り返しねだりはじめ、おれがどうしたらいいのかわからなくて黙り込むと、「じゃあTUTAYAのカード貸して」などと言った。図書館のカードの次はレンタルビデオのカード。そうして柊は大量の「学校」作品を借りてきて、かたっぱしから観た。
ある日帰ると、柊は黒い詰襟を着て料理をしていた。なんだかこれは冗談にならないなと思いながらおれはその背中をぼんやりと見て、「ただいま」と言った。
「似合う?」
「どうしたんだそれ」
「おさがり」
「誰の?」
柊はふふ、と笑った。「これちょっとだけ違うんだけど、そこの中学校の制服とほとんど一緒だから、混ざっちゃったらばれないよ。席はないけど」
柊はひどく聡明でおれがしてやったことはそもそもなにもなかった。おれには友達はいなかった。おれには友達はいらなかった。人間はすべて敵だと思ったほうが話が早いと思っていた。おれには親友はいなかった。おそらく柊は人間を間違えたのだろうとおれは思った。
「ごめんな」
気づくとおれは言っていた。
「どうしたの」
柊は首をかしげた。
「おまえに席を用意してやる甲斐性がなくて」
でたらめを言っていると自分でもわかっていた。でもおれはそのとき本気だったのだ。何を言うべきだったのか、何が言いたかったのかはわからなかったとしても、そのときおれは、本気だったのだ。
柊は心から楽しそうに笑った。
ある朝目覚めると、味噌汁のにおいがしなかった。
そこは自宅ではなかった。おれは飛び起きた。窓の外に青すぎる木々が揺れていた。川の流れる音が聞こえた。そこは旅館のような部屋で、あとからわかったが実際に旅館だった。そうして部屋着のまま分厚い布団に寝かされていたおれのほかに、部屋にはもうひとりいた。頬杖をついて退屈そうに外を見ていた男が、目をこちらに向けた。
「どうも」
「……誰ですか」
「おれは向田といいます。柊の友達です」
柊。おれはがばりと起き上がった。「柊は」
男は何を考えているのかわからない、ほとんど無表情に近い口角の上げ方をした。
「これはあなたの休暇で、柊のじゃない」
柊と出会って一か月が経とうとしていた。
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