2009年2月に書いた日記から

 奈良と大阪へ。

 私はひとりでいた。ひとりでいるのが、とても楽しかった。私と、世界があった。旅をする楽しさは、そこだと思う。新しい仕事を始めることも、物語を読むことも、楽しさは、そこだと思う。

 私があり、そして、私の向こう側に世界がある。私があり、そして、私の向こう側に歴史がある。私は、ここにいる、というだけで、彼らとつながっている。私と仏像はつながっている。ひとつの意味で仏像は、私のためにそこにいた。私は世界を愛した、世界も、私を、うけいれたと思った。みんな私から等しく遠い。他人だからだ。旅先ではそれは当然のことだ。旅先にいないと、そのことを忘れる。みんな等しく遠いのだ。私から。

 そのことを忘れずにいたい。

 いつでも旅路にあるように、生きていたい。

 私には選ぶ権利がある。それが、マイナス10とマイナス100程度の違いでしかなくても、それでも、なにかを判断する権利がある。それは、好きなように楽しいほうを選べる、という意味ではない。その都度、自分の思考方法で、誰に指図されるわけでもなく、判断する自由をゆるされるということだ。それが間違っていても、誰のせいでもなく、私がその責任を負うことができるということだ。

 私が間違えたとしても、誰かのせいだと誰かが悔やむことはない、ということだ。それは私が負っている責任なのだから。それはすばらしいことだ。私の選択で誰かが傷ついたとしても、私が選択を間違えたことそれ自体は、私以外の誰も傷つけない。

 夜の街を歩いた。

 大阪に友人がふたりいる。何度あっても、何を話しても、わたしと彼女たちは異星人のように、時代の違う人のように、ものすごく年上の人のように、幼い少女のように、全然意味がわからないほど遠い。何度話しても、なにも、なにひとつ、理解し合えないのだと思う。

 もちろんそんなわけはない。なにひとつ、などということはない。すこし、すこしずつ、わかりあえる部分はあるのだと信じたい。私はHから、芸能人の美しさの賛美のしかたと、常識的に生きることが、どれだけ崇高なことなのかを学んだ。私は彼女の審美眼に叶わない人間だけど、彼女の審美眼を、私は好きだ。私は美しくなろうとすればするほど、彼女の審美眼から外れて行ってしまうだろうけど。私は外れた方向に行くことでしか、中心へ近づく方法がわからないから。ぐるぐる回ることでしか、中心がどこにあるのか、見極めることすらできないから。

 あなたに話をした。

 私はあなたに話をした。あなたに話したかったから、話をした。

 私は、遊園地に行った話をした。

 そこは奇妙だった、という話をした。

 あなたに何も伝わらなかったことがショックだったので、あの遊園地がどう奇妙だったのか、私はもう忘れてしまった。

 なにも伝わらなかった。不思議にみじめだ、苦しい。何かが伝わると思うのは思い上がりだろうか。手放してしまうべきなんだろう。ひとりひとりはとてもひとりだと、どうしてそんなふうに、あの子と話すと思うんだろう。会うまでは大好きで楽しみなのに、もう二度と会いたくないと何度も思う。わからない。苦しい。切ない…切なさだと思えば、いっそ愛おしいんだ。そうだ、切ない。遠くて愛らしくていとおしい、ばかばかしいことなのに。

わかってくれないなんて大嫌い。でも大好き。なげやりでばかげていて、私のことなんてそんなに好きじゃないんだろう…なんてバカバカしい!片思いだ、片思いだなんて思うことがそもそも、ばかげてるんだ。もっとあっさりと愛するだけ愛したらいいのに。

私も愛されたいだけだ。伝えあいたいだけだ。

あなたは、困っていた。気分を害していたようだった。私は、ちょっとスピードを上げすぎていた。ちょっと結論を急ぎすぎた。ずいぶん、伝える努力を怠った。でも、とても切実に、わたしは、あなたに話したかったのだ。だってあなたのためにしたことだったからだ。私のひとりよがりなのだけど。

 あなたには私はわからないだろうけど、あなたが私を理解できないことは、私をひどく傷つけるのだけど、それでも私は、あなたが好きだ。彼女は友愛の人だ。共時空間をとても大切にしていて、そこにやわらかく、やさしく、しんせつに、漂って笑っていられる人を愛している。私は彼女と居ると、息を止めて笑っていなくてはならないような気がして、鋭い、冷たい、痛々しいことはなにひとつ言ってはいけない、この空間を壊してはいけない、たいせつにたいせつにしなくてはいけない、それがここのルールなのだ、と、がんじがらめになる。美しい小説を読んでいるようだけど、とても、怖い。

 しにたくなる。

 死ぬ、というのは、甘美なことなのだと思う。

 私をなくす、ということだから。

 彼女は私を支配する。

 私は彼女が怖い。

 彼女を傷つけることも、彼女といると、私がどんどん、傷ついてしまうことも。好きなのだけど。彼女の世界の見方の現実的なところと、くるしみのなかでも笑える健やかさが。ここが苦界だと知っている聡明さも、好きなのだけど。

 けれど彼女に向って、そもそもここは苦界なのだから正しさなどなんの意味もないではないかとは、絶対に言ってはいけない。

 あなたといると、私はつねに断罪されているような気がして死にたくなるの、とも、言ってはいけない。

 もうひとりの友達はもうすこし優しいが、私を人間だと思っていないところがある。彼女はどうやら自分自身のことも人間だと思っていない。ロボットだ。理念と常識と、彼女の規定する善悪正誤に基づいてすべてを判断し、そして「世の中と、自分を生み出した者たち」のためにはたらくための、ロボットだ。自分をぴかぴかに磨くことが好きなのも、食べ物に興味を持たないのも、自己空間をはっきり規定してその形を維持するのも、とてもロボット的だ。美しい女性である。しかし、私はロボットではないので、彼女のシステマティックな世界認識についていくのがせいいっぱいだ。

 それに彼女は、私の話を聞いていない。自分の話しかできない。いや、違うな、彼女が指摘したように、私の話す言葉は、彼女の理論では判断しきれない部分を抱えているのか。自分ではその「難しさ」はわからないな。私としてはとてもあたりまえのことを語っているつもりだから。彼女は聡明な人だ、あなたの言うことはわからないし、わかりにくいし、わかるようにする努力をひとりで行うべきだと、私に語った。

 でもどうも、別の部屋で怒鳴りあっているように、主題がズレていた。あれはどうしてだったのだろう。どうも、何かが、間違っていた。彼女といると、そのエアポケットにふっと吸い込まれてしまう。彼女が「こういうことでしょう?」と言う結論は、私の思っていたこととは決定的にまったく違っているのだ。けれど論理は破たんしていないから、何が違うのか、どう違うのか、私には指摘できない。説得されてしまう。説得されてしまいながら、齟齬感だけが残る。

 まじめすぎる、つまり、そういうことか。

 それとも、私が、彼女たちの目に、まじめにうつりすぎている、ということか。Rは、「あなたはそんなにまじめなのに、どうして私の中の真面目さと違った真面目さを見せるの。少し、勘違いしてるんじゃないの」と指摘しはじめるのだ。私はなにもまじめではないのに。私は常識的な人間ではない。そもそもこの世界がどういう常識で回っているのか、私はちっとも理解していない。育ちが違う。受けた教育の根底が、違うのだ。

 人生はぐちゃぐちゃとから回っている。恐ろしく苦しく、そして、爆笑するほど楽しい。彼女たちはその混迷の喜びを知らない。知らないから、私からするとつまらない人生送ってるように見える。でもむこうからすると、必要以上に複雑な人生を送ってるように見えてるだろう。

 私としてはシンプルに選択して複雑を選んでいる。いろんなものがある中で、いろんなものあるなと思ってるのが好きだ。だってどうしようもない、私たちと同じように来ている家族を、私は見たことがない。私たちはみな困難な道を、精神的な必要に駆られて選んでしまった。貴族のように生きることを選んでしまった。

 あたまがおかしいのだ、正しいことを主張しているつもりでも、現実に根ざした正しさではないのだ。おなかがすいたらごはんを食べるような、リアリスティックな欲求から選んだことではないのだ。ただ、私の精神がそれを許さないからという、とても贅沢な理由で、常識から外れているのだ。あたまがおかしい。私は、あたまのおかしさを競いあう人々が好きだ。そのひとつひとつにとまどったあと、そうだねそれでかまわないのかなと言いたい。欲望が新鮮なひとを見たい、欲望の新鮮さが、こころをあかるくするのにすごく必要。

 そう言っても「もっとカンタンに生きようよ」と言われるだけだから、舌打ちしてあんたにはわからないと言いたくなる。まじめな子だなしょうがないなと思おう。つまんない人たち。でもとても好きだ。不思議なほどに。

終わっちゃったんだな。私は贅沢なのかもしれないな。貪欲だな。たくさん掴んで、たくさん持ってるってのが幸せなんだと思いこんでる…でも、惜しみなく投げ捨てるのも好きだ。

ちょっと元気になってきた。惜しみなく投げ捨てたい。嫌いなら嫌いでいいや、好きな部分もある。他人なんだ、距離をちゃんとはかれば、それで十分うまくいくはずだ。大事なのは距離感。あと、伝えるべきことをみきわめなくちゃ。

 広島に戻って、友達と、こどもじみた遊び方をした。

 全員が、仕事がない状態だった。

 現状を笑いのめしている陰に、「もちろん、それは、ヤバイと思う」という怖れと、まあ、私が決めたんだからしょうがない、という諦念と、なんとかなるさ大丈夫、という、とほうもない明るさが隠れていた。

 私たちの立場は褒められた状態ではないし、あなたはばかだと怒られても、何も考えてないと責められても、永遠に子どもでいたいんじゃないかと指摘されても、そうかもしれない、と言うしかないと思う。そう言うとRは、向上心がない、それに曖昧表現を使うべきではない、と指摘するけれど、しかしその発言がやはり本音だ。そうだよ、と肯定してしまってもいいのだけど、それじゃ居直りじゃないか。わたしはまずい人間だが、まずくなくなりたくないわけでもない。しかし、私の選択肢のなかでは、これが今のところ一番なのではないかと判断してここにいるのだから、仕方がないじゃないか。

 マズイし、ヤバイし、間違っていて、そのうち困ることになるだろうし、現状全然これでいいよと喜んでいられるわけでもない、なのに現状をなぜ打破しないのか? というのが彼女の論旨だ。

 しかしこれが私の精神だ。

 私は不安定な環境にいて、年のわりに半端仕事をしていて、自分を養う努力を怠っていた。自分の精神を養う努力を怠っていたことに関しては問題がある。自分を養うだけの収入を得ていないことにも問題がある。しかし、不安定な環境や、仕事の半端さは、私の精神を安らがせるために必要だと考えて、選んだものだ。不満がないわけではないが、その不満も含めて、おかしみがある。不満を否定しても仕方がないじゃないか、それはそこにあるのだから。不満はそもそもおかしみなのだ、笑ってしまえばいいだけだ。

 そのへんの、おかしみの部分を、理解してもらうのは難しい。もうそれは、甘んじて嘘をつくしかないのだろう。私は恐れていない、私はこれでいいと思っている、いつかきちんとした仕事につくつもりだ、修行中だ、……嘘なのだけど。不真面目な人間なのだ。不真面目にふるまいたいのだ。半端仕事に必死になる自分を戯化したいのだ。そもそも、半端仕事に分類されるような仕事が好きなのだ。とても。そういう仕事は休憩がとりづらいので、意識して多めに休憩しなくては間違えるのだが、さぼっているような罪悪感もある。あの罪悪感をどうにか片付けたいものだ。休憩は、さぼっているわけではないのだし。

 友達とばかばかしいふるまいをして遊んだ。ささやかなことだった。中学生のようなささやかな、大人の女ではないふるまいをした。楽しかった。

 わたしはばかばかしい生き方をようやく手に入れた。手放したくない。ばかばかしく生きたい。死ぬときまで笑って、くだらないかんじで死にたい。無価値に必死でいたい。不幸に目を見開きながら。

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