皆方探偵事務所異聞 さよならの作法(2)
クトゥルフ神話TRPGシナリオ「Hand in Hand」(『バグ・シャースの侵蝕』収録)の作品根幹にかかわるネタバレを含みます。2を飛ばして1から3を読んでも話の脈絡としてはつながっています。
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南方睦実はぐらぐらと煮え立つような夕暮れを歩いている。恋人が入院している病院から、自宅へ帰るために、彼は駅に向かって歩いている。彼にとってはそれは何の意味も持たない風景でもある。この世界にはあまたの怪奇事件があり、それは人間が起こすおぞましい事件と並列に、ただ単純にこの世界にあり、だから桂司郎が巻き込まれた事件が怪奇事件であろうと人間の起こした猟奇事件であろうと、それはたいした差ではない。
南方睦実の世界にはこれまで、いくつかの怪異が存在した。南方はそれらを、ばかだからわからないというふりをした笑顔で、親愛なる友人のように扱ってきた。無関心より少しだけ好意に寄せられた感情だけ寄せる友人のひとつに、怪奇がいたとしてそれが彼の人生においてどう影響を及ぼすだろう。ほとんど興味がないということにかわりはないのだから単に彼の人生の美しい一部分であるということだけを信じることができればそれでよかった。南方は生まれて初めての、そして生涯唯一のものとなるかもしれない恋人が同性であることすら、「友達」に打ち明けない。
世界をプラス3、として南方は扱う。あらゆるすべてを美しいものであるかのように、南方は扱って、だから探偵という職業が嫌いだった。疑うことをベースとして人間の醜い所業を暴き立てる仕事が、嫌いだった。配偶者や子供や子供の選んだパートナーを疑い、暴くための手伝いをする仕事を、たぶん自分はずっと憎んでいた、と南方は、煮え立つような夕暮れの中で、思う。だって世界は「前提的に美しい」はずなのに。
残暑の道、ぐらぐらと煮えるような夕暮れのなか、南方睦実の視界に時折かすめてきた何か、彼が笑顔で「恐れていないふり」をしてきた何か、あらゆる何かは彼にとって今、すべて意味をなくして、マイナス3で、色あせている。
そこに「彼女」がいる。
南方睦実が後頭部に鈍痛を覚えながら目覚めたとき、目の前には、キャンプ用の真新しいカンテラが妙に浮いて見えた。カンテラに照らされるその部屋は古ぼけて色あせた部屋で、南方はなにを考えることもできなかった。カンテラを手に部屋を出た時も、そこが地下一階であると確認し、脱出するためには鍵が必要であると理解した時も、そして、女の悲鳴が響き渡った時も、なにも考えることができなかった。密室、救出と脱出劇。敵は明瞭で、救うべきものも明瞭で、そして南方は、ずっと、「ヒーローになりたかった」、……ずっと。
たぶん、それまでの彼なら。
桂司郎を手に入れて喪うまでの彼なら、ばかのふりをして生きていた彼なら、その「計画」は「ヒーローになるために」、「正しいもの」だったのだった。
「彼女」がいる。
南方睦実の人生において、「彼女」は唐突な闖入者だ。南方睦実の人生、幼年期の望まぬ英才教育に始まりありがちな懊悩(自分がバイセクシャルではないかという発見を含む)に満ちた十代を過ごし、十代の終わりから二十代のはじめを京都で遊び暮らして、探偵事務所の二代目所長に収まって、恋人を得て今日喪うまで、ここまでの人生において、「彼女」が入り込む余地は全くなかった。「今日」彼女がそれを始めるまでは。
彼女は南方睦実を拉致し、古い、廃墟と化したホテルにつれてゆく。彼女は自分の作り出した怪奇に、自分と南方を襲わせる。彼女はそうして、南方が自分を「好きになる」ように仕向けようとする。彼女は南方の「あらゆること」を知っている。だから彼女は南方を「手に入れる」ことだってできたはずなのだ、もしかしたら、もし、うまくいっていたら――
「あなたが」
無感動な目をした南方が言う。
「あなたが犯人なんですか」
「……犯人だなんて。あたしはただ、南方先生を」
彼女は南方のクライアントだ。少なくとも、かつてはそうだった。彼女はストーカー被害者で、南方にそれを依頼した、というより、ストーカー対策が「得意」だとされる南方に、別の事務所からたらいまわしにされた。二年前のことで、既に南方の傍らには桂司郎がいたけれど、桂司郎という人間がそこにいることを、彼女はほとんど認識しない――桂司郎はただ単にそこにぼんやりと立っているだけだったから。彼は別に敵ではない、と彼女は思っている。思っていた。
彼女は南方睦実について、ぼんやりした頼りない、うるさい、こどものような男だと思う。十代のようにすら見える風貌の南方睦実が、それでも彼女を救おうとしていることに気づいたのはいつからだったのだろう。ストーキングが再発したら、また南方に会えるのにと思った。事務所の前まで出かけていくことが増えた。そうして――
南方が少し、感情を載せた目つきで彼女を見る。彼女はその感情の意味を読み取ることができない。
「そういう感情は僕にもあるので、わからなくはないですけど、応えることはできないですよ」
「……ふうん。……じゃあやっぱ、ここであなたのこと、あたしのものにするしかないんじゃないの」
「喧嘩をしますか」
彼女は笑う。「そうね」
「できれば穏便に済ませてほしいんですが。僕とても弱いんですよ」
「うん、あたしそれは知ってるのよ、だって南方先生のこと、もう二年もずーっと見てたもの」
「……けっこう長いな。……二年か。……へえ」
感心したように南方は言った。
二年。
二年間、彼女は南方睦実のまわりをうろうろうろうろと歩き回り、時折声をかけ、先生ご無沙汰してますと挨拶をして、お中元もお歳暮も送ったし、年賀状も出して、そうして彼女は――彼女は、ストーキング被害者だった頃以上に、南方睦実にコミュニケーションをとってもらえる可能性は完全にゼロであるという結論に達した、二年。
だから彼女は「これ」を行った。
南方が真顔で言う。
「……二年か。二年てことはタイミングがちょっと遅かったんですかね」
「タイミングってどういうこと」
「僕が桂さんに会った後でしょう。多分。どうですか」
「あたしは……そうね、……あの男のことはよく覚えてないけど。先生の横にずっといるなとは思ってたけど……は? 最初から好きだったってこと?」
まるで諭すように、南方は言葉を続ける。彼女は南方が何を考えているのか、相変わらずわからないと思う、そのことに泡立つように、苛立ちを感じる。
「いや、僕だったら助手なりなんなりのかたちで僕の側にやってきて、仕事場を一緒にしますけど、そういうことができるような状況じゃなかったってことかと思って。どうですか」
「……だって、あたし、探偵事務所に入って、何かできるわけじゃないし」
「いや、それはあなた、君、考え方が甘いですよ、桂さんだって別に探偵の仕事ができたわけじゃないんですよ。それは二年前にスタートダッシュをミスったあなたの問題ですよ」
南方睦実はストーキングの作法について彼女に告げる。
彼は「プロ」だ。
「二年間僕の側にいたら僕は君を好きになったかもしれないのに」
ぐらぐらと煮え立つような夕暮れのなかに彼らはまだ、いる。
南方は彼女の手をつかむ。「帰りましょう」
「罪を償うんです」
迷子になった子供のように彼女は尋ねる。
「……罪って何」
「……人のことを。付け回したり、ものを盗んだり、好意を寄せているという理由で近くをうろつきまわるのは、犯罪ですよ。……僕はそのことで長い間苦しみました。ちゃんと、教えてくれる人が、あなたにはいなかっただけです」
南方の声はひび割れてくぐもる。泣くのをこらえているような声だった。責めているようには聞こえなかった。彼女は小さな声で答える。
「……じゃあ、先生が教えてよ」
「わかりました」
南方睦実は答える。
「あなたはこれから警察に行って、これまでしたことをきちんと償わなくちゃいけません。でも、僕は、ずっと、あなたの友達でいます」
僕はずっと、ありとあらゆる南方睦実の友達でいます。
そこに彼女がいる。彼女はモノクロに沈んでいく風景のなかでパトカーにのりこもうとして、ふと思い出したように振り返る。彼女は問いかける。
「釈放されたら、先生の事務所に就職できるかどうか、試してもいい?」
南方は答える。
「君は探偵の才能がある。なったほうがいいですよ」
彼の名前は南方睦実といい、皆方探偵事務所の所長である。
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