皆方探偵事務所異聞 南方睦実の恋情3

クトゥルフ神話TRPGシナリオ「最果てのレイル」「咎送りの徒花」の軽いネタバレを含みます。TRPGされない方はとくに気にせずご覧になってください。

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 桂司郎は列車のなかで窓の外を見ている。美しい星空が満天にひろがっている。そこは話しかけてくる少年がいる。君はここにいるべきではないよ、と彼は言う。桂は問いかける。「あなたは帰らないんですか」

 少年はどこか南方睦実に似ている、と桂は思う。

 その意味を少し考える。桂司郎は最近少し南方睦実のことを考えている。南方睦実は桂の上司で、妙な男だが桂は上司としてある一定量の愛着は持っていた。信頼をしていたとまではいいかねた。南方は信頼するにはあまりにも生きることが拙く見えた。

 勤め始めた頃、南方は桂に向かって、「怖いものから守ってね」と言った。

 桂は「はあ」と答えて、それからずっとそれを仕事にしていた。二年前のことだ。メイクアップアーティストを目指して上京して、面接落ちを繰り返して気落ちしていた頃、明松啓秀という若い知人に紹介されて、少し、法律に詳しいからという理由で。不自然に思える広さのオフィスに彼はその日ひとりでいた。事務員がもうひとりいると聞いたのはあとになってからだ。いずれにしろ三人が過ごすには少し広すぎるオフィスだった。

 南方は少年のようなあどけなさで笑って「たすかるよお」と言った、無邪気な大学生のようにしか見えない青年が、桂の新しい上司だった。「難しい話が出たら相談に乗ってね。僕は法律のことはからっきしだから」それでなんで探偵なんだ? という言葉を桂が口にすることはなかった。その頃は感情を口にすることがないのは普通のことだと思っていた。

「あと喧嘩が強いって聞いた」

「喧嘩が、強いわけでは、ないですけど。空手を少し」

「修羅場があったら頼らせてね」

「はあ。善処します」

「あはは。あなたはいい人だな。よろしくお願いします」

 二年。

 少し前、南方睦実は桂に向かって、自分は恋をしている、と言った。と、思う。それがどういう意味なのか測り兼ねているのは、彼が、「自分が恋をしていることは暴力で、自分は間違ったことをしている」と言ったからだ。桂にはその意味がわからない。暴力。暴力というのは――

 理不尽な記憶がふと蘇りかける。桂はそれを思い出したくはない、と思う。若い頃、性的な関係を持ったことが一度だけあって、でもそれが、良いことだったと思っていいのか、桂にはわからなかった。男友達はそれを、羨ましいと言った。桂はそれまで判断のつかないことがあったら母に相談をする子供だった。幼い日に事故で大きな怪我を負うことになった桂を、母はとても深く愛してくれた。けれどまさか性的な接触について母に相談するわけにもいかない。塗りつぶされたような紫色の記憶、女の浴衣の色。ぼんやりと記憶の隅に追いやる。べつにそれが何ということでもない、と桂は思う。ただ。

 南方が、自分の好意は暴力だと真剣な顔で言って頭を下げたあの居酒屋の夜以来、自分は南方のことを考えている、と桂は思う。そしてそのたび、あの女の影が、脳裏をちらつくのだった。大掃除を手伝った、夏の日だった。紫色の浴衣を着ていた。抵抗してもいいのかどうかすらわからないままに終わっていた。忘れたいのに、忘れられないのに、それがどういう名前のついた出来事だったのか、桂にはわからない。

 わかっているのは、南方先生は「それ」を「していない」こと。

 夜闇の宇宙を行く列車のなかで、桂は少年の名前を呼ぶ。彼はどこか南方に似ている、と桂は思っている。「天野くん」

「やっぱり君は、どこか帰るところがあるんじゃないですか」

「そうなのかなあ」

「一緒に帰りませんか」

「でも」少年は言う。「僕はここに来る前、とても怖いものを見たような気がするんだ」

 南方が言う。「僕は怖いものが嫌いだから、守ってね」

 なにかに突き動かされるように、桂はぼんやりと言う。「……もし、行くところがないならうちに来てもいいと思いますけど。どうです?」

「……君は親切なんだね」

「さみしくなったことはないですか?」

「時々はさみしくなったりすることもあるけど……そんなにつらいとは思わないよ」

「それならここにいてもとは思うんですけど……ご両親のことを忘れているというのは悲しいことかなと僕は思いますので、もし、少しでも思い出せる可能性があるのなら、僕個人としては、一緒に来ていただけないかと思うんですが」

 少年は小さく笑う。「そう、……そうだね。そうしようかな。君はいい人だし」

 あなたはいい人だな。


 ひどい速さで落ちていく手が相手を探す。伸ばした手を跳ね除ける手があって、ごく単純に傷ついた。視界に入った南方の顔は、なにかを決意したように遠くを見つめていて、桂を見てはいなかった。桂を見てはいなかった。桂を見てはいないのだった。

 列車の夢を見たすこしあとに、唐突な花畑に迷い込んだ。花畑で南方が、ゆっくりと記憶を失っていった。桂が理不尽な理由で傷つくたびに、対価として南方の記憶は支払われた。混乱と恐怖とそれから悲しみと、それから――

 南方先生はいつから、おれのうしろに隠れなくなった?

 あんなに怖がりだったのに。

 南方先生はいつからか、いつだ、いつだか思い出せない、いつからか、おれのうしろに隠れなくなった、たしかに、そうだった。前に立って、歩いていくようになった。守ろうとするようになった。ふざけた話だ。用心棒として雇われたはずなのに、南方はおれを守ろうとしている、たぶんそれは彼が口にした恋と関わりがあって、でも馬鹿げている、馬鹿げているよ。

 先生。

 そうして全てを忘れてゆく南方が、それでも桂を守ろうとして、桂の手を拒絶する。南方がそうして桂のために全てを手放す。全てを失ってからっぽになった南方に、桂は手を伸ばす。腕の中に抱え込む。

「正直、あなたが俺のことを忘れたままでもいいのではと、思っていたのですが」

 桂司郎は小さな声で、ゆっくりと言っている。

「……ええと。……俺のことで、あなたはだいぶん……その、苦しんで、いるように見えたので……それから開放されるというのであれば、俺のことを忘れるのも、……悪くはないのでは、ないかと。……でも」

 桂司郎は母親のことを考えている。

 それから、蓄積されたあらゆる、彼の記憶のことを。

「……愛するひとのことを忘れるのは、それ以上に、……苦しい、あなたに、それを味あわせるのは、本意ではない、ので、……いや……」

 暴力、と、南方睦実は言ったのだ。

 そこにある好意は、暴力だと。

 そうなのだとしても。

「おれは、あなたにつらい思いをしてほしくない」

 南方が声を発する。名前を呼ぶ。失われたはずのことばがもどってくる。それはおれの名前です。それはおれの名前です。それは。

「……桂さん、ありがとう」

 桂司郎は自覚する。


 満天の星空の下に、彼はいる。

 花畑から帰還した翌日、桂は仕事を休んで、池袋のプラネタリウムに出かける。そこは少し前、南方が桂に告白をした日、ふたりで出かけた場所だ。彼はぼんやりと偽物の星を見つめている。彼は考えている。これまでのこと。母が愛してくれたこと。紫色の浴衣のこと。頭を下げて震える声で謝る南方のこと。列車のなかで会った少年のこと。花畑のこと。彼は息をついて星空に、声を出さず息を漏らす。彼はもう、知っている。


 桂司郎は南方睦実に恋をしている。

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