ショーゴさんとタケルくん(2)天使を見た話
遠い国に行きたいと思ったって思い立ったその日に来れるのはたったここまでで、俺は夜の釧路の霧のなかを抜けて焼いたホッケをかじっている。ホッケはたしかに美味かったけどわざわざ北海道まで来て食べるほど好きだったかどうかわからない。熱すぎて眼鏡も曇るし。半分こ、と言って律儀に半分のこしたタケルに、箸のさきでおしやってやった。
「食べないんですか」
「やる」
「ショーゴさん細いんだからもっと食べなきゃだめですよ」
「あぁ?」
「あっはいスイマセン生意気言いましたスイマセン。でもうまいですよ」
「うまいか」
「うまいです」
タケルは、はぐはぐ、と擬音を乗せたい調子でものを食べる。俺はそれを眺めるのが好きだった。ビールよりもっときつい酒が飲みたい気分だった。店員を呼んで、地元のものと書かれていた酒をでたらめに頼んだ。それから片目でタケルを眺めながら、「かに雑炊とレタスチャーハン、あとコロッケ、あとウニ一枚」店員が下がるのを待ってから、タケルは目をぴかぴか光らせて、「食いますね!」と言った。
「ばか。俺のはウニだけ」言うと、タケルはぽかんとして、それから、へらりと笑った。俺もつられたように笑った。タケルといるようになってから、意識せず笑うことが、増えたような気がする。
「ショーゴさん」
「うん?」
「泣いていいすか」タケルは体育会系なので、語尾を省略する癖があり、俺はそれが嫌いなので再三注意しても直らない。「語尾」
「あ、すいません……だって。ショーゴさん、やさしい……」
「俺はいつだってやさしいよ」
「あっ俺ちゃんとお金もって来てますから! ますから!」
「ばか、シューズでも買え」
「なんかほんと……すいません、シューズ用の貯金です……」
「ばか」
俺はなんだかとても愉快で、いつもよりたくさん、笑ったような気がする。俺はくりかえし、タケルはを、ばか、と呼び、するするといくらでも入る日本酒を何杯も何杯も飲み、タケルをながめ、タケルはほんとうにすこやかでいいやつだと思いながら、笑っていた。
二年間勤めたコンビニチェーンが倒産した。怪しいらしいという話は聞いていたが、そんなはずないだろうと思っていたし、俺はもうここに骨を埋めたいくらいの気持ちでいたので、いきなり死角からふいをつかれた形でそれは来た。俺は未来のコンビニ店長から、二年間アルバイトをしただけの無職になったのだった。コンビニなんてどこも同じ、そりゃそうだろう。だからまたコンビニにバイトで入ればいい、そりゃそうだろう。けれど俺はがっくりして最後の日をむかえ、がっくりしたまま、家に帰れずに、公園のぶらんこに悄然と座り込んでいた。
タケルに、その話ができなかった。タケルは元々は店の客だ。トレーニングで走る途中に店に毎日来ていた。なぜか俺になついてきて、俺もなぜか気を許して、話をするようになり、家までついてくるようになり、いつのにか上がりこませるようになった。寒い夜に家の前で待っていることがあるから、スポーツマンに風邪をひかせるわけにはいかないと思って、合鍵を与えた。それきりタケルは俺の家にいつき、しょっちゅう泊まり込んでいくようになった。
こうやって話していると、まるでストーカー被害にノーガードだったかのように聞こえてしまうけれど、俺はほんとうにタケルのことが気に入っていた、気に入っていたのだと思う。俺はなかなか人を気に入ることがないけれど、タケルといると、笑いやすかった。もう何年も、笑いたくて笑ったことなんかないような気がしていたのに、タケルといると知らないうちに笑っていた。
こんな気持ちになるのは、店長になって、自分の店を構えるときだと思っていた。あの店を離れて、そうすればタケルのロードから離れて、タケルとも、顔なじみの客とも、別れてしまう、そのときには清々しさと寂しさの混ざり合った気持ちになるのだろうと思っていた。こんな形は望んでいなかった。目尻を熱いものが伝い、俺は眼鏡を外した。くそ、と呟いた。夜の公園でひとりで泣いているなんて、あまりにも陳腐だった。
「ショーゴさん」
そして涙と近視でぼやけた視界に、それは現れた。
二重に視界がぼやけていた。あと背景に電灯が見えていた。そして俺はひどく感傷的になっていた。それらの理由は加味されるべきだと思う。けれど結果から言おう、俺はその瞬間、目の前に、天使を見ていた。坊主頭の天使を。天使は俺にひどくやさしく微笑みかけ、俺に手をさしのべ、俺の頭をぎゅっと抱いた。汗とスポーツドリンクの匂いがした。
「ごめんなさい、隠してること、知ってました」
なんで、ここ。俺はそう言ったと思う。言えていたかどうかはわからない。でも言おうとした。
「わかんないですよ、わかんなかったんで、ずっと、探してました。なかなか見つけられなくて、すいません。でも、見つけた。よかった」
しってたって。
「だってショーゴさん、来るなって言ったってさ、ショーゴさんとこ行かなくたってコンビニよそにもあるし、ニュースも流れるし、ショーゴさん、あんたちょっとばかだよ」
ばかはおまえだよ。
「うん」
ばか。
「うん」
ばか。
「うん」
タケルは暖かかった。俺はずいぶん冷たい人間で、だからこんなときに話を聞いてくれる相手ひとり知らなくて、そもそも、話したいことなんて、思いつきもしないのだった。だけど俺は、だれかに、探してもらいたかったのかもしれないと思った。こんなふうに誰かに探されて、そして見つかりたかったのかもしれなかった。公園は流刑地のように寒かった。タケルはポケットからなにかを取り出して、俺の、冷えた、むきだしの手におしつけた。とても熱かった。ココアの缶だった。俺は鼻水をすすった。
そして俺はココアにむかって祈りを捧げるようにうずくまり、笑った。
タケルが俺の腕をつかんでいる。タケルも酔っているのだろうか、そんなはずはない、タケルは立派なスポーツマンだから、酒なんか飲ませるわけにはいかないのだ。だからタケルが俺の腕をつかんでいるのは、俺を逃がさないためなのだろう。俺はうれしくなって笑った。
「霧があるから、すごく、明るく見える」
「うん。おまえもそうか。俺が酔ってるからじゃないんだな」
「ショーゴさん普段ビール一杯しか飲まないのに、無理するから」
「無理、無理はしてない、断じて、楽しかったから、飲んだだけだ」
「それが無理してるっていうの。まったくさあ。ひとりで行かせなくてよかった」
どこか遠くへ行きたいと俺が言った時、じゃあ俺も行くよとあたりまえのようにタケルは言った。おまえ部活あるだろう、いま予選の最中だろうと言っても聞かなかった。結局、タケルの夏休みがはじまるまで、逃避行は延期された。チケットを買ってやると言ったのに、タケルは頑固に首を振った。ホテルはおごってやるつもりだった。俺はそれなりに小銭を貯めているのだ。仕事以外に楽しみもなかったから。
俺は天使を見たあの日から、燻らせている感情があり、それはずっと秘密にしておくべきだろうと思っていた。けれど目の前が白くけぶるように輝いていて、腕を大切なもののように掴まれていると、決心がぐらついた。このまま逃げ続けることができたらいいのにと思った。おまえは帰らなくちゃならない、おまえは現実を生きなくちゃならない、おまえはすこやかに育ち続けなきゃならない、けれど俺はこのまま、どこへ流れていっても、いいのだと思った。守るべきものなんてはじめからなかった。
公園の寒さを俺は思った。どこまで逃げてもあんなに寒い場所には辿り着かないだろう。だから俺はずっと幸福だろうと思った。おまえがあの時俺を抱いてくれたあの暖かさがある限り、俺は幸福だろうと思った。だから俺は笑って、言った。
「タケル。好きだよ」
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