「神」とは何者の名か

 「憧れのイラストレーター」のことを「神絵師」と呼ぶネットスラングがあります。「神絵師とアフター」というのはもうこれがひとつの寓話のようなものですが、寓話として扱うにはあまりにもくだらないのですが……


 むかしむかし、神絵師がいました。神絵師とリプライを交わしたことがある読者が、ある日神絵師の参加していたイベントのスペースに現れて、言いました。「この後アフターありますか? 参加したいです」 神絵師は断りました。 友達ではないので。


 神絵師、に限らず、モテる人、憧れを寄せられる人、というのは、「いっしょにいると自分がよりよい存在のように思える」人です。たとえば絵の上手い人と仲良くなれると自分も絵が上手い気がする(そんなはずはない)。これは極端な話ですが、「話のうまい人と話していると自分まで話がうまくなったような気がする」はよくあることです。話のうまい人は相手から話を引き出すのもうまいことが多いから。

 そしてそのうちの一部の人々は「これができるので、モテる」ことを活用して生計を立てていることもあります。「こっちはサービスを提供するので、あなたはモテたという気持ちになって、しかるべき対価を」ということですが、これも別に対価が目的でサービスを提供しているわけではなくて、あらゆる仕事がそうである(あるいはそうであったらよりよい)ように、「できてあたりまえ」だから「気軽に差し出せる」、つまり、モテることに興味がない、モテている自分にもモテたがっている相手にも興味がないような人は、さらっと差し出せるだけではないかと思う。ウェイターは運んでいる料理に欲望してはいけない。欲望を適切な量に調整できるか、あるいはいっそ欲望を一切持っていなくてただ単にできるからやっている、というほうが冷静になれるのはあたりまえで、既に述べた通り冷静になれない状態は非常に刺激的でつまりストレスが多いものです。

 「別にモテたいからそれをやっている」わけではない人ほどモテる、という話です。じゃあ憧れの人に関心を持ってもらうためにはどうしたらいいのか? 憧れの人にとって面白い相手になるか、憧れの人と一緒にいてあたりまえの存在になるしかありません。

 「モテ」というものを「差し出されるもの」の問題として捉えると、「モテる人」は「差し出してくれる人」で、逆に言うと、「あなたが好きなのは、差し出してくれるからです」という関係にある間は、「サービスを受ける側」に過ぎない。そういう関係を、客体消費といいます。「神絵師とアフター」というのは「神絵師と対等になりたい」ではなくて「神絵師を消費したい」という欲望である、ということ。

 ここを突っ込んでいくと、「わたしという存在は、相互に与えあえるものを持っていない」=「だから、持ってる人からもらうことしかできない」=「持ってる人はずるいので、与えるべき」という式が出来上がってしまう。持っている人は別にずるくはありません。そういうふうに生まれついただけです。「ずるい」という感情についてはまた別に書いていますが、これは単に「わたしはあなたになることができたかもしれない」という「勘違い」です。

 神絵師(あるいは優れていると思える誰か)への憧れに対してとるべき態度は「もっと与えてくれ」ではなくて、「わたしはこの人に与える立場に回れるだろうか、あるいは、相互に交換できる立場に立てるだろうか」です。当然だけど、誰も「神」ではないので、差し出してくれる人がいればたいてい喜びます――例外はあります、何事も。喜ばない人もいるけども。

 「わたしには差し出せるものは何もない」のかどうか、そして「あの人は本当に差し出せるものがたくさんある」のかどうか。わたしたちの違うところは何で、同じところは何か。

「関係を持つ」というのは基本的には「わたしはあなたではない」ということを確認し続ける作業だとわたしは思っていて、「わたしはあなたではない、そして、わたしはあなたがあなたであることに敬意を払う」まずそこから、そこから次のステップがあるかどうかはまた別問題。

 「わたしはあなたがあなたであることに敬意を払うし、あなたがあなたであるところが好きだし、もっと見ていたいし、あなたがあなたであることを阻害されてほしくないと思う」というのがマッチングしたところにあるものをたとえば「友情」って呼んでいいのではないか、ここは定義はいろいろだとは思うけど。

 ただ単にまず他人を、それから友達を目指しましょう。こんにちは!


 以下略投げ銭箱です。

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