ταυτολογίαあるいは秋の海の出来事(2)名前
すべてを押しつぶすような曇天が、べったりと夜を塗りこめている。排気ガスの匂いはここまでは上がってこない。窓から頭を乗り出して見上げると、そこはどうやら最上階だった。空が近く見えるのはしかし、建物の高さの問題ではなく、空の方から落ちてきているに過ぎなかった。はちみつのように今にもぽたりと重く落ちてきそうな空だった。
デスクの上に無造作に置かれた懐中電灯を、人物はかちりと着けた。それは部屋に一本分の線を作った。トートロジーが振り返ると、ビニール袋がやけに白く見えた。あらゆることが過剰に感じられ、さっきまでと全く違う世界に入ったようだ、とトートロジーは感じた。世界がすべて遠く感じられていた日々はもうない。今トートロジーは、垂れてきそうな空や射るような光の過剰さを享受している。
「おかかと昆布」
「……君の夕食だろう」
「腹減ってるんじゃないの?」
「わからないと言ったと思う」
「じゃあ食ったらわかるよ。食べて。どっち? おかかと昆布」
「昆布」
「よかった」
「なにが」
「おかかのがすきだから」
だったら聞かなければいいだろうと思い、トートロジーはそこで小さく笑った。目が合った。首をかしげて、「よく笑うね」と言った。使いまわされた形跡のあるペットボトルに入ったぬるい水を渡されて飲んだ。ビニール包装されたおにぎりを剥いて食べる。味はしない。味がしないのは今に始まったことではないので、何を驚く必要もない。
ホテル・ユートピアは四階建てで、客室は三十室というところか、小さなホテルだ。青を基調とした調度は、まだここに客が客として――闖入者としてではなく客としていたころの、おそらく、そのままなのだろう。ベッドは使われた形跡はあったが、積もった埃が積もったままそこに堆積していた。彼または彼女にとって、ここは一時の通過点にすぎないのかもしれない、少なくとも、掃除をしない程度には。彼または彼女、と思ったところで、トートロジーは尋ねた。
「君の、名前は」
「……名前?」
目をぱちんと閉じて開いた。やけに大きな目をしている。
「チビとかハゲとかブスとかみんなてきとうに呼ぶよ」
「それは悪口じゃないのか?」
「悪口だろうけどさ」
「呼びづらいな」
「呼ぶの?」
「呼ぶとも」
当たり前ではないか、とトートロジーは言いかけて、彼が本当に訝しんでいるらしいことに、なぜかそのとき衝撃を受けた。しかし名前がなくては困る。一瞬迷い、それから、トートロジーは言った。
「メタファ」
「うん?」
「そう言ったらそれは私がおまえを呼んだということだ」
「名前」
「そう。メタファ」
同語反復と比喩が向き合って食事を摂っている。比喩はたしかにつるりとした頭をしていた。というより、とトートロジーは気づく。眉毛もないし、ペットボトルとおにぎりを差し出した時見たむき出しの腕にも毛の一本も生えていなかった。ぱちり、と胸の目が瞬きをしたのがわかった。長いまつげがシャツにひそかに触れた。
「名前を呼びたい、というのは」
食べ終わったごみをもとの袋に入れながら、目を伏せたメタファが言った。
「しばらくここにいる、ということ?」
「どうだろうな、状況次第だ」
「状況って何」
「わからない」
「……変な人」
うん、とトートロジーは言った。「私は変な人なんだ。証拠もある。見るかい」メタファは顔を上げた。
シャツのボタンを上から四つ、はずす。
メタファがじっと見ている。なにを考えているのかわからない目つきでトートロジーを見つめたメタファが、手を伸ばした。トートロジーはじっとその手を見ていた。メタファがトートロジーの胸の、目の、まつげを、さら、と、撫でた。
その目が何を感じているのかトートロジーは感知しない。
ただ、胸の目が人間を見たのは、あの夏の日以来のことだった。
開け放した窓の向こうで、さあっ、と、唐突に雨が降り始めた。ほとんど音のしない、さらさらとこぼれるだけの涙のような雨だった。胸の目が降らせたものかもしれない。これは時々そういうことをする。唐突にユリシーズを思い出していた。あれきり目を合わせてくれなくなった弟が、しばらく読んでいたこと、ずっと持ち歩いていていつまでたってもページが進まないようだったこと、トートロジーはもう読み終わっていて、その感想くらい聞いてもいいだろうかと、思ったこと。おそろしく広い世界にばらばらになったダブリン市民をもう観測できない。二度と会えない。死んだから。
胸の目が生まれる前の彼も弟も、もう死んだから。
ジョイスは、ユリシーズがあればダブリンを再現できる、と言った。
小さな手だった。
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