見出し画像

萩の原逍遥記(野1)

 久しぶり、と巽ちゃんは言いました。久しぶり、とわたしは答えました。それはマナーに従った呪文のようにわたしには思えました。

 question。巽ちゃんとは誰でしょうか?

 巽ちゃんとはわたしの隣の家に住んでいた子供の名前で、彼は五人兄弟の末っ子でした。わたしは三人兄弟の末っ子で、末っ子同士だからということでもありませんが、わたしたちは仲の良い幼馴染でした。たぶん、はたからみれば、そんなふうに見えていたでしょう。少なくとも、このあいだ巽ちゃんに久しぶりに会って、と言ったわたしに、姉は言いました。ああ。たっちゃん。あんた仲が良かったものね。そうだったかしらとわたしは思いました。巽ちゃんのことをわたしは、怖い子だと思っていました。

 あたりの景色がなにもわからなくなっているのは、わたしにとってはいつものことでした。幼稚園でそうだったように、巽ちゃんはわたしの手をしっかりと握りました。幼稚園のころと違うのは、巽ちゃんの手が、大人の、男の人の手として、硬い、骨でできたようすをしていることでした。わたしは、なんて違うんだろう、と思ったあとで、幼稚園の頃の巽ちゃんの手について、こんなにも驚いているということに驚きました。

「聴くことないよ」

 巽ちゃんが言うので、わたしは、なにを、と問いかけます。わたしは子供の頃から愚図で、巽ちゃんが言うことが、いつも、いつも、よくわかりませんでした。もっともそれは巽ちゃんが悪いのではなくて、誰が言うことだって、全部、よくわからないのでした。全部が不思議の国のように思えました。ここではないどこかがどこかにあるとしても、けれどそれは愚図のわたしの場所ではそもそもないのでしょう。

「あれは無為坂コンデンサっていう名前だよ」

「なんのこと?」

「話しかけてくるけど、必要がないときは聴かなくていいよ。無害だから。言いたいことをずっと喋っているだけだし、たいていは誰かのかわりに吐き出してやっているだけなんだよ。聞いていると面白いこともあるけど、ノンちゃんはああいうのに、ずるっと飲み込まれて、出てこられなくなることがあるでしょう」

「それは――」

 巽ちゃんでしょう。

 言いかけて、わたしは黙りました。言ってはいけないことのような気がしたのです。

 巽ちゃんの手を握ったまま、わたしは振り返りました。たしかにそこに、ノイズ交じりの音を発している、なにかがあるようなのでした。でもわたしには、それが何なのか、よく見えません。ずっと目を凝らしていると、湧き上がる泉のようなものが、そこにあるような気もしました。巽ちゃんは明るい声で、「ハロー」と言いました。

 『無為坂コンデンサ』は、やたらに明瞭な音で、「ハロー!」と、返事をしました。したようでした。たぶん。

 カオスとロゴス、とわたしはつぶやきました。

 カオス、混沌のなかにあるものを、すくい上げて名前をつける神話が、世界中あちこちにあります。日本神話もそうです。名前をつけることは、目に見えるものにすること。わかるものにすること。つまりわたしがいまなにもわからないのは、カオスの名づけを行えていないから。

 巽ちゃんが言いました。

「ノンちゃんが愚図の馬鹿だっていうのは、僕は、嘘だと思うよ」

 巽ちゃんにはわからない、と、わたしは、小さな声で言いました。

「今のうちならマドレーヌにつかまらない。走って、ノンちゃん。走って。マドレーヌは無為坂コンデンサが嫌いなんだ。嫌いすぎて、ときどき壊そうと徒党を組んで襲い掛かるけどね」

「マドレーヌ?」

「僕は紅茶を浴びてきたから、マドレーヌはしばらく近寄らない」

 ほかになにも見えません。わたしは巽ちゃんの手を握っています。あの日わたしは巽ちゃんの手を放しました。それは本当に起こった出来事だったのでしょうか? どれが本当にあった出来事だったのでしょうか? わたしは学校に行きました。わたしは就職しました。巽ちゃんはバスケットボール部で。配線工事の仕事をすると言っていた。穴を潜る。

 のが好きだったわたしの幼馴染の。

 これは誰だろう?

「走って」

 わたしは走りました。

 無為坂コンデンサが、走って、と、こだまのように、叫びました。

ここから先は

30字 / 1画像

¥ 200

気に入っていただけたらサポートいただけるとうれしいです。