見出し画像

神様に生まれた罪 あるいは有里風真冬のこと

 有里風真冬は有里風家三男として二月の寒い日に生まれた。彼が生まれた年は二月になっても冬のさなかのようにしか思えず、ゆえに彼の名前は真冬とされた。彼は自分の名前があまり好きではなかった。それは寒い日に生まれたという事実だけを示すものでしかなかった。彼は自分の人生には欠けているものがとても、とても多いことに気づいていたが、それを具体化していくには欠けすぎていた。彼の人生は幸福なものではなかった。

 真冬は生まれる前からとても大きな子供で、親族はこぞってなるほど、と言い、それは真冬が生まれてから姿を隠すまでの十八年間、ずっと繰り返された。それが繰り返されなかったのは真冬が生まれ育った村を離れて過ごした三ヶ月のことで、その三ヶ月が真冬にとって幸福なものだったのかどうか、真冬自身にもわからなかった。その三ヶ月は真冬にとってとても長く、鮮烈で、あらゆる側面を含んでおり、そしてたぶん真冬はそのあらゆる側面に耐えることができなかった。いや、そうじゃない、もっと前からずっと、真冬はそれらに、それらというのがどれのことだかわからないまま、もうずっと耐えることができなかったのだということに気づいたのだった。それらがあまりに大きく、あらゆるすべてだったので。

 順を追って話そう。有里風真冬のこと、物語として生まれるとはいかなることかについての話だ。

 岩手県の山岳部の小さな村に、有里風という名前の一族がいた。その一族には三世代に一度、巨体の子供が生まれた。巨体の子供が生まれた年は富がもたらされるという言い伝えをまさか皆が信じこんでいるわけでもなかったが、実際彼が生まれた年、その村が舞台になったテレビアニメーションが作られ、観光客がやってくるようになった。当時まだそのようなかたちで特需が訪れることはめずらしく、いくどかのメディアでの取材には、赤ん坊の真冬の姿も写された。この子は特別な子供なのだと、メディアのなかで真冬は強く語られている。赤ん坊の真冬は、生まれてまだ一年足らずだというのに、すでに言葉を話すのではないかと思えるような表情でぱっちりと目を開き、驚いたようにカメラを見上げている。

 真冬は子供の頃から村中の人間の注目のまとだった。彼はいつも同年代のだれよりも大きく、倍ほどの年齢にすら見えた。だれよりもはやくおとなびていく体にたいして顔立ちはあどけなく、それがかえって、回りの人間に悪感情を抱かせなかった。彼が目立つことをとがめる人間はおらず、彼は、いわば村で飼われている共有の犬のような存在だった。犬が大きくて立派であることを咎める人は犬が嫌いなのであって、大きくて立派であることが咎められているのではない。

 大きくて立派なものが村にあることはよいことだった。大きくて立派なものを村中の人間が見ることができることはよいことだった。真冬は大きくて立派なものとして生まれ、大きくて立派なものとして育ち、村中の人間が、真冬がいる村はとてもよい村だと思った。少なくとも、自分たちは特別な世代を生きて巨人を眺めることができて幸運だと思った。彼らの巨人はいつもおだやかににこにこと笑っているおとなしいよい巨人だった。そうして彼らの巨人は十八歳の夏に唐突に消えて、彼らのもとには二度と帰ってこなかった。


 真冬は手首を隠して生活するようになった。人前で服を脱ぐのを嫌がった。冬の日に窓を割ったことがあった。真冬が十四歳の冬の日、自分の部屋の窓を割った理由を、誰も聞かなかった。それは事故なのだと誰もが思っていた。真冬は保健室に足しげく通うようになった。そうして遠くの大学に進学したいと言った。家族は驚いた。遠くの大学に進学したいと望む人間はほかに誰もいなかったからだ。けれど願いはかなえられて、真冬は遠くの大学に進学することになった。

 真冬には友達はいなかった。真冬はみんなの巨人であって、だれかの友達ではなかった。真冬は保健室にいないときは図書室にいた。図書室の隅で本を読んでいる真冬はいつも長袖を着ていた。真冬は巨人だったので、だから、巨人である以外のことはだれの目にも留まらなかったので、真冬が年中長袖を着ていることを誰も怪訝には思わなかった。

 図書館で本を読んでいる真冬のもとに、ときどき人がやってくることがあった。彼らは握手を求めた。真冬に触れるとラッキーだからという理由で、握手を求めた。ペンやノートといったものを交換してもらいたがることもあった。真冬はいつもあいまいに微笑んでそれに応じた。クラスメイトの幾人かは、そうやって好感したペンを今でも大切に使っている。

 真冬を取り巻く人々は真冬に対していつも親切だった。

 真冬はしだいに図書館にも行かなくなった。夜遅くまで帰ってこなくなった真冬に、どこにいるのか、と家族は聞いた。真冬はあいまいに笑って、山にいる、と応えた。それはあまりにも巨人にふさわしい言葉だったので、家族はそれ以上何も聞かなかった。

 真冬は山道を歩いてゆく。

 真冬は山道を歩いてゆく。真冬は斜面を眺めている。真冬は手首を誰にも見せない。真冬は体を誰にも見せない。真冬は山の斜面に立った木に結び付けた縄を見る。それは他人事のように真冬の目に映る。綱の先は輪になっていて、真冬はそれに頭を差し込んでみる。そうして、思う。手首は長袖で隠れる。首に痕が残ったら、それは制服では隠せないな、と。

 けれどそうしたら皆ついに、真冬を見るのかもしれない、と。

 成功したら、と真冬は考える。なにをもって成功と呼ぶのか、真冬にはうまく、考えることができない。真冬は勉強は不得意ではなかった。ただ、教わったことではないことを考えようとすると、頭の中が行き場を失うのだった。どうして縄を納屋から持ち出したとき誰もなにも言わなかったんだろう、と真冬は思う。どうしていつも長袖を着ていて、誰も何も言わないんだろう。けれど保健室の先生に、誰にも言わないで、と頼んだのは真冬なのだった。保健室の先生は、遠くに行きなさい、と言った。遠くってどこだろう?

 真冬は縄を見つめてじっと立ち尽くしている。夕暮れが過ぎて夜が来る。遠くってどこだろう、と真冬はもう一度思う。けれど今は家に帰らなくてはならない。そこには誰もいない。そこには巨人はひとりもいない。そこには神様はどこにもいない。有里風真冬は神様として生まれた。村にも学校にも真冬のまわりには誰ひとり、神様はいなかった。たったひとりだって、いなかった。真冬は小さな声で物語を暗唱する。物語を暗記することを、近頃はじめてそれをしている間は、ほかのことを考えないで済むので、真冬は、物語をどんどん暗記していた、一番好きな物語は、人魚姫。


 真冬は走っている。

 真冬はとびきり美しい衣装を着て、とびきり美しい長い髪、あの十四歳の冬の日にもう切らないと決めて伸ばしていたふさふさした長い髪をはためかせて、走っている。真冬は物語のヒロインになることに決めて、物語のヒロインのための服を着て、お化粧をして、髪の色をロマンティックな色に染めて、そうして、そうしたら、生き延びることができるかもしれないと、そう思った。たった三か月。真冬が生まれながらに運命づけられた神様であることを知らない人々に囲まれて、遠い街で、真冬は物語のヒロインのように優雅な服を着て生活することにして、それは丈の長いスカートで、真冬は巨人だったから、丈の長いスカートを履いた真冬はとても目立った。平気だった。そもそも真冬はだれがどう見ても特別に目立つ存在だったのだから、特別に目立つ振る舞いを、自分からしたほうが、いいのだった。頭がとてもクリアで、とても幸福だった。真冬は、でも、と思った。女の子の格好をして永遠に生きていくことは、できないな、できる人もいるだろうけど、きっと僕には、できないんだろうな。いつまでも永遠に十八歳の夏ならいいのにな、と真冬は思った。真冬をかわいいと言ってくれる人がたくさんいて、自分が特別なのは自分が特別なことをしているからだと思えていれば、いいのにな。

 そうして真冬は神様を見つけた。

 真冬は神様を見つけた。

 神様はだれがどう見ても、神様だということが、誰にでもわかる姿をしていた。真冬がそうであるように。神様は無造作に座って、菓子パンを食べていた。彼が話しかけると、あらゆることが彼の意のままになった。神様はとても美しい顔をしていて、その美しい顔で微笑みかけると、すべてが彼の意のままになるのだった。そして神様の側には神様が美しいことを称える音楽家がひとり座っていた。彼はとても無邪気に、なにを差し出すでも奪うでもなく、ただ神様が神様であることを称えているのだった。真冬はふいにとてもうらやましくなって、とても悲しくなって、とても、苦しくなった。

 そうして音楽家は唐突に死んだ。

 真冬は走っている。

 真冬は死ななくてはならないので、走っている。音楽家は真冬を、神様とは呼ばなかった。真冬はたぶん音楽家のことが好きだった。嫌いだった、わからない、どっちだろう、ただ、真冬は、音楽家が死ななくてはならない世界にとどまることは、できなかった。真冬はただ走っている。神様、と真冬は思う。真冬は、神様のことが、たぶん、嫌いだった。

 真冬が、自分のことを、ずっと、嫌いであったように。

 真冬は走っている。目の前に夏の海がある。それはとても美しい。真冬は今でも長袖しか着ない。人魚姫、と、真冬は思った。とても美しい海に、できる限り美しいまま沈めたら、幸せだろうな。たぶん僕は生涯で、いまが一番美しいんだろうな。これ以上のことは起こらないんだろうな。このまま終わりにするのが、一番いいんだろうな。誰かを好きになりたかったと真冬は思った。けれどそれをかなえることが、真冬にはどうしても、できなかったし、これからもきっと、できないのだろうと思った。誰かを好きになりたかった。真冬を神様と呼ばない誰かを、好きになりたかった。でも真冬は真冬自身を人間に戻す方法がわからなかったから最後まで真冬は真冬のことが、ずっと、嫌いだった。


 かつて神様と呼ばれたこともある、とても美しい男は、死んだ男のかわりに、というより、それ自体として、薔薇の鉢植えを傍らに、旅をしている。彼は真っ黒に塗りつぶされたような車窓を眺めながら、列車に乗っている。彼の傍らには不思議な色をした薔薇の植木鉢があり、彼はそれを、恋人、と呼ぶ。そこにあるのは愛と呼ばれるものであると彼は絶対的に考えているけれど、それが本当にそうであるかは誰にもわからない。花がはらりと花弁を落とす。男はそれを拾い上げて口に運ぶ。彼は恋人を飲み込む。すべてを受け入れるように、彼は恋人を飲み込む。

 真冬は言う。真冬はもう死んでいて、彼は薔薇の花で、彼は神様の傍らにいて、もうなにを考える必要もなにをする必要もなくてもう巨人でもない。真冬は言う。誰もその声を聴かない。「早く全部が終わりになるといいね」

 男は本を読んでいる。本の中で石炭袋と呼ばれる黄泉の国に彼が向かうことはない。彼はかつて神様と呼ばれたことがあるが、自分は人間であると知っており、彼の恋人、いま彼が薔薇の花として認識し傍らに置いている彼の恋人が、かつて人間であったことも、知っていた。真冬、と彼は呼ぼうとする。真冬、と彼は、恋人の名前を呼ぼうとする。喉が渇いている。


 ヘッダー画像:https://twitter.com/marine_cut

ここから先は

0字

¥ 200

気に入っていただけたらサポートいただけるとうれしいです。