寂しさと承認欲求について

 「モテない、さびしい、モテたい」というご相談を受けます。めちゃくちゃ頻繁に受けます。とりあえず寂しさについて。

「寂しい」というのがどういう状態かというと「自分の輪郭が不明瞭である」という状態じゃないかということを近頃考えていて、だから「だれかほかの人の言葉で自分の輪郭を定義してもらいたい」というのが「承認欲求」ではないかと思う。いろいろなそれのありかたがあるとは思うんですが、いまのところそういう理解をしています。

で、それのやりとりができることをたとえばここで「愛」と呼称する。愛の定義はめちゃくちゃ難しいという話はもうしましたが、ここでは仮にそれを愛と呼ぶことにする。

でも実際は「愛し合っている」人であっても「あなたがあなたである」ということを立証はできない。「わたしの知っているあなたは、このような姿をしている」あるいは「このような姿をしているはずである」までしか定義できない、「あなた」が「あなた」であるという保証をできる「誰か」は、いない。「あなた」が、顔かたちを変えて、記憶をなくし、そこまでいかないにしても「わたし」に対してひどい言葉ばかりを用意するようになったとき、「わたし」は「これはわたしの知っている『あなた』ではない」と言わざるを得なくなる。でも「あなた」が「あなた」ではなくなったわけではない。どんなときでも「あなた」は「あなた」であることをやめることはできない。

だから、「あなた」を定義できるのは「あなた」だけで、ほかの誰かが「あなたはこういう人だよ」って言ったとしても、それは「そうであってほしいという期待」なり「こうだったときのあなたがわたしにとって良いものであった」という、ある種の願望、希望、そういうものが投影されているだけで、だけでと言ってしまったらあれだけど、誰も「あなたはこういう人ですよ」とか「あなたのいいところはこういうところですよ」とか教えてくれるわけなくて、輪郭を鮮明になんかしてくれる人はいない。

それでも人とかかわると、ひとりで考え込んでいるよりもずっと、「自分とは何か」が鮮明になる。

それはなぜか。

「定義」とは、「それではないもの」との比較の上にしか成り立たないからです。「わたし」の「あなた」と違う部分は何か。あるいは「わたし」と「あなた」の同じ部分は何か。「白」と「黒」の同じ点は何か、目に見えるものであること、「色」と定義されるものであること。わたしとあなたの同じ点は何か。人間であること(たぶん)、今同じ時間と空間を生きていること(たぶん)。違うところは何か。白と黒の違いは、白いところが一つもないのが黒で、黒いところがひとつもないのが白です、たとえば。「わたし」は誰なのかといえば、「少なくともあなたではない」。「わたし」が誰なのかは、「わたしを形成していて、あなたを形成していないもの」から探り当てることができる。だから、誰かといると、あるいは何かに触れると、誰かに自分に定義してもらうまでもなく、「わたし」ってなんだったのかがわかる。

「誰かに認められる」より先に「自分」を見つけるべきで、「自分」を見つけるためには別に旅に出る必要はなくて、「好きなものを好きって気持ちを大事にして、好きな人と、あるいは好きなもので、たくさん遊ぶ」が、一番近道なんじゃないかと思います。


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