皆方探偵事務所異聞 さよならの作法(1)

 深夜零時半に電話を取る。


  朝起きる。「桂さん」声をかける。身を起こした恋人がぼんやりとラジオをつける。ラジオが朝のニュースを告げている。ラジオの色は赤い。深い赤を、甘い色だ、と思う。僕はそれを、ソニーくん、と呼ぶ。桂さんの親友の、ソニーくん、生まれ変わることができるなら僕はソニーくんになりたいと思う、でもできれば、自分のままでいたいと思う。

  桂さんはソニーくんを耳に当てて、ぼんやりと起きあがる。僕は朝ご飯を作っている。朝ご飯を作って食べる頃には桂さんは起きている。覚醒した桂さんに僕は、おはよう、と言って、かきまぜた納豆を渡す。一緒に暮らすようになってから、僕は桂さんに、納豆をかきまぜてから渡すようになる。僕はそれを許される。僕はあらゆることを桂さんに少しずつ許されながらここにいる。  

「桂さん」 

 午前零時半に電話を取る。 

 深夜一時に僕は病院にいる。 

「回復の見込みはありません」

  僕はぼんやりとその言葉を復唱する。それ以外のことが、僕はなにもできなくなっている。「回復の見込みはありません」

  医師がいくつかの言葉を言い、それから、「南方さん」と僕を呼ぶ。「南方さん」僕は復唱する。医師の手が伸びてくる。僕に触れる。僕は自分が、医師の言葉を繰り返し続けるこわれたおもちゃのようになっていることに気づく。医師は僕に水を渡す。僕はそれをのみこむ。 

 僕はソニーくんのことをそのとき、考えていた。 

 桂さんが一人暮らしを始めてからずっと、寝起きの悪い桂さんの朝のお供をしていた、機械でできた桂さんの友人に、僕はなんだかそのとき、自分がよく似ているような気がした。反響を続けることしかできない自分が、とても安らかなもののような気がした。永遠に誰かの言葉を復唱していられれば、それで幸福だったような気がした。誰かの言葉。誰の言葉を。 

 ――探偵にならなくてはならないと思っていたのは、どうしてだっけ。

「……すみません」 

 けれどやがて僕は混乱した思考回路から戻ってくる。僕は言う。それは僕自身の言葉だ。「すみません、取り乱しまして……」僕はひどく冷静な声で言う。僕はそんな声を出すことができたんだな、と、自分でも思っている、永遠にニギヤカシをやっているだけの人生、おもちゃのふろくみたいな人生を演じ続けるのかと思っていたのにね。

  僕の人生。

  僕の人生に与えられた最良のもの、桂司郎を喪失したことを僕が知った、9月26日、午前一時半。

  僕は病院のロビーにいて、年下の女の子ふたりと話をしている。僕は妙に冷静で、まだ何がどうなっているのかわかっていないのかもしれないと思う。僕はいったい誰と話をしているのだろう、と僕は思う。僕はいったい誰と話しているのだろう。清花ちゃんにはいつ会えるかな。たぶんすぐに会うことになると思うんだけど。 

 さっき、清花ちゃんにLINEを送った。すぐに返信があった。だから僕は本当は、清花ちゃんがいつ、東京に来るのか、知っている。すぐに、と彼女は言った。清花ちゃんは、桂さんの、ななつ年下の、妹で、たぶん電話をかけたらおとうさんやおかあさんを起こしてしまうだろうし、清花ちゃんにLINEをしたらそれで済むことだし、LINEをして、その返事はあって、だからもうそのことについては考えなくていい。それなのに僕はまだ繰り返し、清花ちゃんにはいつ、会えるかな、と、考えている。

  目の前にいる女の子たちの顔を、特徴を、僕は覚えようとする。そして、目の前にいる女の子たち、16歳と20歳だと言っていた女の子たちがあんまり若いので、だから清花ちゃんのことを考えているのだ、ということに思い至る。僕は目の前にいる少女たちのことを覚えようとする。だって彼女たちは―― 

「桂さんはあなたたちのような強くて聡明なお嬢さんを、守るために、危険を顧みないような人だったので」 

 僕は自分の声がまるで他人事のようだなと思う。

 なんだか全部、遠くで起こった出来事みたいだな。 

「だから、謝らなくてもいいんです。いつかこんな日が来るんじゃないかと、思っていました」 


  むかしむかしあるところに、皆方探偵事務所という探偵事務所があって、5歳の僕がそこで遊んでいる。そこはお父さんが運営している探偵事務所で、日曜日にお父さんは僕をつれてそこに来て、たとえば鍵開けをやらせてみせるのだった。追跡調査に連れていくこともあった。かくして僕はストーキングの基礎を8歳にして完全に理解し、「お気に入り」の友達と遊ぶために軽く披歴してみせた。僕は私立の小学校に通っていたので、友達はみんな、遠くに住んでいた。僕は友達の家を特定し、遊びに出掛けて行って、チャイムを鳴らしたらお母さんが出てきたので鍵開けまではやらずに済んだ。スイミングスクールのバスから降りて友達が家に帰ると、そこには南方睦実がいて、別に遊ぶ約束とかはしていなかったのだけど、お母さんに与えられたカルピスを飲んでいるのだった――というわけで犯罪者たる僕には相応の処罰が与えられ、教科書が破かれたり靴が隠されたりし、僕はフツーに親に密告し、親は教師に伝え、学級会が開かれ、まあ小学二年生のことだ、先生の言う通り全部丸く収まった。いじめはなくなった。僕は尾行をしなくなった。 

 でも僕はそれからずっと、僕は自分が罪人であると思いながら生きてきたし、自分が持っている自分の能力は、人を傷つけるためのものなのだというふうに思って生きてきて、だから、誰も好きにならないのだろうと思っていた。あらゆる人間が僕より優れているのであって、なぜなら間違ったことをしないで生きているので、僕はみんなを素晴らしい存在のように思った。思うしかなかった、のかもしれない。 

 僕は、不思議だな、と思っている。 

 僕は世界中のあらゆるものが、ずっと、少し、素敵に見えていた。でも、医者、女の子たち、それからお母さんと清花ちゃん、みんな、なんだか、色あせて見えて全然、なにも、素敵には見えないのだった。僕はぼんやりと経緯を説明し、でも実は僕に説明できることは、ほとんどなにもないのだった。桂さんが何に巻き込まれてどうなってしまったのか、誰にも説明はできないのだった。

 桂さんの肉体は生きていて、桂さんの脳も生きていて、でも、桂さんの精神が、どこを探しても見つからない。桂さんは生きて目覚めているけど、同時に桂さんは、どこにもいない。

  僕はそれを「死」と呼んでいいと思う。 

 その定義がほかの人にとって正しいかどうかはわからない。ただ僕はそれを「死」と呼ぶべきだと思う。同時に僕は、「桂さんは死んでいない」と思う。「桂さんは死んでいないので、全部これまで通りだ」と思う。「全部これまで通りなんだから、僕と桂さんが一緒に住んでいること、僕と桂さんが一緒に働いていること、これから先について桂さんと一緒に話し合ったこと、全部、今まで通り、何も変わらないでいいはずだ、だって桂さんは、死んでないんだから」

 探偵をやめてはならない、と僕は思う。

  桂さんが生きている証明をするために、探偵をやめてはならない、と思う。


 探偵であり続けることは僕にとってずっと呪いだった。


 子供とコミュニケーションをとることが下手だった父が僕に与えた職能から、僕はずっと逃げようとしながら、同時に探偵を継ぐ以外にできることはなにもないと思っていた。抗いながら、諦めようとしていた。結局僕は無能な探偵になるほかなかった。父は僕に言った。「事務所を頼む」僕はそれを積極的に誤読した、父は僕に探偵になれと言ったのだと誤読した、探偵になることを「求められている」のだと、僕は思おうとした。思うことで、許されようとした、の、だと、思う。

  そうして僕は今、これまでにないほどに冷静に、桂司郎の足跡を辿っている。僕はカラオケルームにいる。あの日桂さんは奇妙な事件に巻き込まれて、少女たちと昼から夜にかけての時間を潰すために、カラオケルームに入った。僕は桂さんが入ったカラオケルームを店員から聞き出し、その部屋に入る。 

 恥じるべきことだと思うのだけれど、僕は店員を見て、ああ、桂さんに似ていないな、と思った。 

 こんなにめちゃくちゃにさびしいときは、男の腕に抱かれたいな、と思った。 

 それは桂さんに似ている男ではいけない、と、思った。 

 だって桂さんは死んだんだからさ。 

 僕はカラオケルームのソファに座り込んで、延々と流れ続けるコマーシャルを見ている。僕の目の前でワンドリンク分のカルピスの氷が溶けていくのを、僕は見ている。残夏の部屋はまだクーラーで冷えていた。涙も出ない。笑うことも怒ることもできない。目の前にあるものが全部、マイナス5くらいに無意味に見える。魔法が解けたみたいに。

  全部素晴らしいものだと思い込むことで、いったいなにから自分を守っていたんだろうな。 

 法律のことはよく知らない。講義に出ていなかったので。だから法律について少しだけ知っている人を事務員に紹介するよと啓秀くんに言われて、その人が、とても背が高くて、とても強そうで、とても格好いい人だったので、とても嬉しかったのを、覚えている。まるで、珍しい動物を、明日から飼っていいよと言われたみたいに、僕ははしゃいで、「用心棒になってくださいね」と言ったのだった。桂さんは無感動な顔で、「はあ」と言った。多分、本当に何も考えていなかったのだと思う。 

「僕ぜんぜん頼りにならないし怖がりだから、僕のこと守ってね」 

 恋に落ちるまで2年。恋に落ちてから4か月。交際をはじめてから3か月。一緒に住むようになって2ヶ月とすこし。気がつくと僕は薬指の指輪をしっかり握りしめている指が白くて震えていることに気づく。自分の指ではないようだと思った。なにひとつ自分の身に起こったことではないようなので、今更驚くようなことではなかった。 

 恋愛を始めた。指輪を買いに行った。昼食に弁当を作ってもいいかと聞いたら承諾されて嬉しかった。週末は必ず泊りに行った。一緒に住もうと言い始めるまで早かった。二人で暮らすための部屋を選んで、引っ越しをした。桂さんは僕が生まれ育った町に住みたいと言ったので、そうなった。法的効力のある何かをするかどうか話し合うには3か月は短すぎた。僕は彼の、「同居人」に過ぎないまま、彼にとって僕が「何」であるのか、彼はもう証明できない。 

 ストーキングと何が違うのだろう。 

 これから先の彼の人生を欲しいと願うのは、何が違うのだろう。 

 8歳の僕の間違いを、僕は、 

「桂さん」 

 カラオケルームに僕はいる。昨日桂さんがそこにいたカラオケルームで、僕はあなたの名前を呼んでいる。 

「これからもあなたといっしょにいてもいいって、僕を許して」 

 最後に桂さんが考えたのは、どんなことだったんだろう。

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