天国はあなたの名前である(1)
唐突に息子ができた。よくある話のようでもあるし、なかなか起こらないことのようでもあり、判断基準がないために、かえって冷静に対処した。
おれは築地という名前で、東京生まれでこの名をつける親は馬鹿かロマンチストのどちらかだということは容易にわかることと思う。おれの容姿を見たうえでそう名付けたというのだから変わっているが、ほかの案としては鮪というものも挙がっていたことを考えると、築地あたりにしておいてくれてまあよかったという話ではある。おれは非常に美しい容姿を持って生まれたために、魚釣りを趣味としていた父は、うっかり感激しすぎて予定していた釣場や魚の名前を一切取りやめて国内でおそらく最も有名な魚臭い名前を採用したのである。母が何を考えて止めなかったのかは知らない。
ともあれおれの名前は築地であり、魚のうろこが輝くように美しい外見を持っているということに感動した親に名づけられた。両親には似ていない。母方の祖父がおれに似たような顔をしていたとのことだ。
おれのもっとも不幸であった点は、築地という名前ではなく、両親に似ていないという点から始まったように思う。
なにしろ舞台映えのする顔をしていたし、その瞬間までおれは一応人間というものに期待と信頼を寄せていた。その瞬間というのは、子役として登用された芝居の舞台袖から、大道具の裏に引きずり込まれた瞬間のことだ。おれは内心そのひらひらした薄手の衣装を身に着けた自分を鼻にかけていたのだが、それ以降そんな感情は雲散霧消してしまった。とにかく怖かった。そこで何が行われ、何が行われなかったかを強いて言う必要はないだろう。とにかく怖かった。
とにかく怖かったのだった。
「というのがおれの初体験だよ」
と言うと、柊はよくわかっていない顔をした。よくわかっていない顔をされておれは正直ほっとした。
柊は三日前にできたおれの息子である。
有休を申請したら、急に珍しいね忌引き? と聞かれて、「いえ、息子が那智の滝を観たいと言っているので」と答えた。
「息子いたっけ」
「できたんです」
「え!? ちょっと待って生まれたんなら出してもらう書類あるから言ってよ」
「あ、いえ、実の息子というわけではなくて」
「連れ子さん?」
「いやなんというか」
柊の言を借りるなら、柊はおれの「親友」の息子である。
「父が死んだので来ました」
柊をはじめて見たとき、とてもきれいな目をしている、と、唐突に思った。ふだんそんなことは思わないのに、急に思った。おれは他人の顔をまっすぐに直視しないようにしていたのだけれども、それで何年もやってきていたのだけれども、柊はあんまりまっすぐにおれを見るので、おれとしてもまっすぐに見返さないわけにはいかなかった。
柊がやってきたのは夜のことで、柊は一回だけ、長く、チャイムを鳴らした。それに出なくてはならないと思わせられるチャイムだった。まだ着替えていなかったこともあり、おれはビールの空き缶を潰しがてら、立ち上がってぼんやりと玄関をあけた。柊はまっすぐな目で見上げていた。小さな子供、と思い、さほど小さくもないか、とも思った。わからなかった。目の前にいるのがどれくらいの大きさの子供なのか、闇に紛れていたせいか、わからなかった。ただ、子供だ、と思った。背丈がどうこうではなくて、目が澄みすぎていた。
ところでおれには親友がいたことはない。
おれがたいへん美しく生まれたという話はしたと思うが、美しく生まれたおれの人生にはおよそろくでもないことしか起こらなかった。4歳のときには大道具の裏に引きずり込まれたし以降痴漢ストーカーの類には十歳になるまえに慣れ、そして不幸なことにおれの両親は美しいということに全く慣れていなかった(おれに似ているというおれの祖父は早いうちに死んでいた)。おれが妙な人間に延々とまとわりつかれる理由が両親にはよく理解できなかった。そしてどうなったかというと、誰にも頼れないということと、敵は憎んでいいということと、人間はおおむね敵だと思ったほうが話が早いということだった。人間を憎むのは簡単なことだった。全部一括に敵だと思って自分の近くに寄せないでおいたほうが話が早かった。というわけでおれには親友はいない。
にもかかわらず、おれの部屋で体育座りをしてスルメイカを齧っている子供は、おれの親友の息子だと言った。
おれは酔っぱらっていたし、なんだかそういうことってあるだろう、自分の人生に、ありもしない思い出があるような気がすることが。中学生くらいのころに、そういえばこんな顔の親友がいたような気がした。おれはそいつにとても慕われていたような気がした。困ったらあいつを頼れと息子に言うようなやつが、おれにもいたような気がした。そんな気がした。すくなくとも柊はそういった。
「おやじ、死んだら筑地さんを頼れって。筑地っていうのは猫の天国の名前だって」
「だいぶん間違ってる気がするんだが」
「魚めっちゃいるんでしょ?」
「それは合ってる」
「じゃあ合ってるよ。すばらしいなまえだね!」
柊は真顔で言い、「このイカもやわらかくておいしい」とついでのように褒めた。スルメイカは固いほうが上等のような気がなんとなくしていたのだが、おれはこのスルメイカが世界一良いスルメイカであるような気がその時して、とても良い気分になった。筑地。天国の名前。そんなふうに褒められたのも生まれて初めてだった。天国の名前。猫の天国の名前。猫の天国?
「猫の天国?」
「うん」
柊は、マルヤシュウと名乗った少年は、さきほどと同じようにくろぐろと丸い目をおれに向けて、言った。
「おれたちは猫だよ」
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