皆方探偵事務所異聞 南方睦実、生まれ変わる
その日は土曜日で、皆方探偵事務所は休業日だった。桂司郎はふわふわした感覚のまま、けれど今日が休みの日なのはいやだなと思った。ちょっとした仕事を見つけ出して片付けて、なんとかして職場にいようと思った。桂司郎は昨日恋を始めたのだった。
梅雨のはじめに南方睦実が桂に恋心を打ち明けた。それはひどく持って回った言い方ではあったけど、実際恋心を打ち明けたことは確かなはずだった。そして今桂は南方に返答をしようと思っていた。胸の中に温かい感情があって、自分はいま正しい選択をしようとしているのだとたしかに思った。花畑のなかで起こった怪奇のなかで、南方は桂を救い、桂は南方を救い、そうして。
月曜日になったら、と彼は思う。月曜日になって南方に会ったら、それを伝えよう、と思いながら、桂はどこかそわそわとした感情で、自宅でぼんやりと目を覚まして、仕事に行こう、と思った。南方のことを考えていたくて、仕事に行こう、と思った。
飲みかけのコーヒーのマグカップが南方のデスクに置かれていた。
一瞬、なにのことだかわからなかった。そうして異変に気づいた。南方は片付けをこまめにする男だった。飲みかけのコーヒーを放置するのはおかしい。思考が唐突にまとまって、仮眠室の扉をあけた。南方はそこにいた。
ここがまだ忙しい探偵事務所だった頃はしょっちゅう使われていたのだろう、今では南方が毎日風を通す意味だけのベッドが置かれた仮眠室。部屋の隅には明松啓秀が持ち込んだ寝袋と私物を少し入れたカラーボックス。ベッドの上に、掛け布団をかけずに転がって、南方は不自然に赤い顔をしていた。桂が行動を起こす前に、南方は顔を上げて、あげようとして、小さな、ごく小さな声で、なにかを言った。
「せんせ……?」
耳を近づける。かすれた、熱い声が桂の耳に掛かった。「ごめんなさい」声はそう言っていた。倒れていることを謝っているのだろうかと思った。助けてくれと言われるのかと。けれどその言葉の続きは、助けを求める言葉ではなく、「がんばるから」だった。
掛け布団をかけ直して寝かせてから、解熱剤を買いに出かけて、戻ったとき、南方はぐずぐずと泣いていた。顔を覆ってぐしゃぐしゃに泣きながら、南方は繰り返し、「ごめんなさい」と言った。
「薬が効いてきたら、家に戻るとええですよ。……せんせ。ごめんなさい、とは?」
薬を飲ませてから問いかけると、南方は、まるで途方にくれた子供のような声で、
「たくさん心配させた」
と言った。
部屋の隅に置いてあるスツールを運んできて、桂は腰掛けた。南方の頬を撫でる。「たしかに心配はしましたが、べつにええですよ」
南方は首を振った。「もうしないから」
「なにを?」
「心配かけないから」
「……だから、べつに、気にせんでいいですよ」
頬をゆっくり撫でていると、南方はぐずぐずと泣きながらごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返して、しだいに声が小さくなっていった。眠り付いたまつげにまとわりついた涙の粒を拭った。少し迷ってから、頭を撫でる。
南方が起きてきたのは午後を回った頃だった。
軽い仕事をいくつか片付けながら、南方が目覚めるのを待っていた桂に、南方は枯れた声をかけた。
「……ご面倒をおかけして……」
西日が差し込んで、南方の表情がよく見えなかった。頭を何度か振った南方は、「タクシー呼んで帰ります、桂さんも適当に上がってください」と言った。
「はい……」
痩せた、細い体の線が、いつもより細く見える。「……大丈夫ですか、先生」
「桂さん」
南方は表情の読み取れない、おそろしく静かな声で言った。
「僕はもう桂さんに心労をかけるようなことはないようにしたいと思っているんです。……でも、それでもまた、繰り返すことになったらすみません」
「急に、どうしましたか」
南方は少し黙った。「いえ。……帰ります。お疲れ様でした。今日はどうもありがとう」
「あの」
考えるより先に声が漏れた。「ごめんなさい、体調がすぐれないとこ申し訳ないんですが、……もうすこしだけお話しませんか」
「……はい」
「……すこし待ってくださいね」
桂は立ち上がり、南方のデスクの椅子を自分のデスクまで動かして、座らせた。せめて温かいお茶を飲ませなくては、と思った。お茶を淹れて、ひざ掛けを肩にかける。なにかに誘導されるようにそうしてから、正面に座って、のぞきこむようにした。はっきりと目の前にいるはずなのに、南方の表情はあいかわらず、読み取れなかった。いつもあれだけ雄弁なはずの顔がまるで凍りついているように見えた。
「すみません、お引き止めして」
「いえ」
「先生……どうかしましたか、なにかあったんですか?」
「……桂さんに迷惑をかけたくないんです。それだけです」
「めいわく、ですか」
「でもたぶん、僕はまた桂さんを心配させるから。……だから。ごめんなさい」
桂は少し黙った。なにを言うべきか少し、迷った。
「……それは、その。具体的に、なにをしないようにする、という意味で、おっしゃっていますか。おれには、それがいまいちわからんのです」
南方はお茶に手をつけないまま、手を拳に固めて、膝の上に置いている。俯いた。
「……うまく言えない」
「先生、おれもうまく言えるかわかりませんけど。なんというか……おれは、ええと……先生のことを心配するの、そんなに嫌いでは、ないですよ」
静かな声だと思った。自分が必死になっているような気もしたし、必要なことが全部わかっているような気も、した。南方の肩が震えるのを、スローモーションビデオのようにはっきりと見ていた。
「僕は」
南方の声は震えていた。
「僕はたぶん長く生きないと思う」
「……はい」
「僕は、立派な人間に、なりたいと、思っていて、でも、僕はうまく、そう、なれないから……」
「はい」
「でも、なりたいと思っているから、たぶん、簡単に死にますよ」
「はい」
「桂さんを傷つけたくないんです……」
「あのね、先生」
「うん……」
「おれは、あなたが、おれを傷つけたくないと思ってくれて、うれしいです。でも、あなたが立派な人間になりたいなら、それでおれがしんどい思いをするとしても、気にせずにそうあってほしいとも、思います。……おれは、欲張りでしょうか?」
南方はひっく、と喉を鳴らして、慌てて手を持ち上げた。目を拭っている南方に、桂は手を伸ばして、抱き寄せた。とたん南方は声をあげて泣いた。まるで子供のように泣く南方の背中を、とんとんとあやしながら、桂は言った。
「先生、こないだの花畑のこと、覚えていますよね。あれは、おれだけの白昼夢ではなかったですよね」
南方は泣きながらこくこくと頷いた。
「いろいろ、つらかったやないですか。おれもつらかったけど、先生も」
南方は今度は首を横に振った。
「おれは、あそこに行って、行けて、その、よかったと思ってて」
耳元で小さな声がした。「……どうして?」
「おれを、あなたが、助けてくれたのを、覚えてます。……それはつらいことでしたけど、でも、そういうことをあなたがおれにしてくれたのは、うれしかった。だから……なんというか……」
「桂さん」
「……はい」
南方は桂の肩に沈みこませるような声で言った。
「本当は僕はいつもとても怖い。……桂さんは僕の隣で一緒に怖いと思ってくれますか」
「はい」
背中に腕が回った。南方の腕が、桂の背を抱いていた。「……ありがとう」
「あのね、先生」
「うん」
「先日、先生が居酒屋で言うて、だいぶん保留にしてた件あったでしょう」
「……うん」
「おれは、あなたがなにを怖がっているのか知りたい」
「……これが、答えでは、いけませんか」
南方は息を吸って、吐いた。声はわずかに震えて、それから落ち着いた。
「……生きているのが。生きているのが怖いんです。桂さん僕は、生きているのが怖いんです。あなたが傷つく事や、間違いだとか、それから……うまく言えない」
桂は南方を抱く腕に力をこめた。
「じゃあ、おれが一緒に生きますよ。先生」
南方の腕も桂を抱き返した。
「そんで、どうしてもこわくて、たまらなくなったら、お話をしましょう。おれと。ぜんぶどうにかできるなんてことは、おれにはできませんが、でも、できるだけ、あなたの側にいます」
南方は小さく息をついた。
「欲張りなのは僕の方です。ありがとう。桂さん。桂さんを僕にください」
そこは夕方の事務所で、彼らはそこで二年の歳月を過ごした。彼らはそれがそこに来ることを知らなかった。彼らはそこにはなにもないのだと思っていた。彼らはそこになにかを始めるはずでは本当はなかった。けれどすべては始まったので、彼らはそこにいて、桂は応えた。
「……はい」
夢を見ます。
できるだけ最高の方法で死ななくてはと思う。誰も傷つけずに、誰を見損なうこともなく、死ななくてはと思う。世界がきれいだと信じられるうちに死ななくてはと思う。――そうしないと。
早く死ななくてはと思う。
心臓がばくばくと音を立てる。僕は、と南方は思う。僕は早く死ななくてはならない。僕は罪人だ。桂さんは僕を好きになってしまったじゃないか。僕が桂さんを好きだと言わなければ、きっと彼はそれに気付かなかったのに。
だって僕はきっと簡単に死ぬよ。
そうして僕は桂さんを傷つけるだろう。
なのに桂さんは僕に生きてくれと言った。僕は桂さんを傷つけたくない。桂さんは僕が死んだら傷つくだろう。
それならば今のうちに、せめて今のうちに、死ななくてはならないのに桂さんは僕に、生きてくれと言ったのだ。
ぼんやりと事務所で過ごしているうちに夜が来てそのままぼんやりしているうちに朝が来ていた。なにを考えたらいいのかわからなくなって頭が痛くなり、朝の五時に仮眠室に転がった。少し寝たらすっきりするんじゃないかと思った。実際は逆で、ずいぶんたくさん泣いた。なにもかも吐き出して軽蔑されてもそれでいいと思った。疲れていた。
そうして僕の前にいる青年のことを僕はとても美しいと思う。
僕は尋ねる。
「桂さん」
「はい」
「桂さんの火傷に」彼のとくべつなしるしに。「キスをしたい。してもいいですか」
彼は身を屈めた。僕はキスをした。僕はその瞬間全部が終わったような気がした。あるいは全部がはじまったような。僕はヒーローになることはできなかった。いつもそうでずっとそうで、たぶんヒーローになるためには誰かの為に死ぬしかないのだろうと思った。誰かの為に死ぬことができたら僕の人生は完成すると思った。そうして桂さんはそれをしてもいいと言った。そのために傷ついてもいいと言った。僕のものになってくれると言った。
キスをした。
そうして全部が終わったんだ。お父さんが死ぬときあとは任せたと言ったこと、したいことがわからないこと、できることをやっても褒められないような気がすること、生きるのが怖いこと、全部が怖いこと。怖いことが、全部。
「……あとはまたいつか、させてください」
終わって、始まるんだと、思った。
僕にそう言われた桂さんは、僕の肩に額をつけてね、
「……まるであなたがぜんぶする側みたいに言う」
って、そう言ったんだよ。
僕の気持ちったらさ!
桂さんはなにもなかったみたいに身を起こして、「タクシー呼びましょうか、すみません長々と」と、いつもどおりの、少しくぐもった声で言った。いつもどおりマスクをつけながら、「こんなつもりやなかったんですが……」と、言い訳をする声でつぶやいている。僕は彼の手をそっと握った。
「我儘を聞いてもらってもいい?」
桂さんは訝しむように、ん、と首をかしげた。
「うちより桂さんちがいい」
「……狭いですよ?」
「いい」
「そうですか」
桂さんはタクシーを呼ぶ電話を一本かけたあと、まるで長いあいだ家族だったみたいに、あたりまえみたいに、
「……帰りましょうか、では」
って、言ったんだよ。
※桂さんの台詞はダムるしさんが書いてくれました。ありがとう!
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