皆方探偵事務所異聞4 ぬるい風がふくところ

 僕の名前は南方睦実といい、いま見上げているビルの四階、皆方探偵事務所とある窓は僕のおさない頃の古い遊び場だった。漢字が違うのは父のアイデアで、戦国武将みたいじゃあなんだか頼りづらいだろうというのだった。僕の家では両親ともに休日働いていて、休日、幼稚舎で預かってもらえない僕は事務所に放り出された。だから物心ついて真っ先に叩き込まれたのは守秘義務だ。休みの日にやったことはなにもかも全部、秘密にすること。子供の単純な頭に細かなルールを理解させるのが難しかったのはそりゃそうだろうけれど、みんな休みの日にはいろんなところに出かけているみたいなのに、そりゃないじゃないかと僕は子供心に思った。それで僕はまず嘘ばかりつくようになった。子供のつく嘘だ、たかがしれてる。それはすぐにばれて、幼稚舎の先生(彼女は僕の初恋の人である)は少しだけ心配そうに微笑んで、むっちゃんは想像力が豊かなので、と喧嘩の理由を詳らかにしてしまったのだった。

 下策だった、と父は反省した。

 それから父は僕に向かって、これから休みの日にはお父さんが将来の役に立つことを教えてやる、と言った。そして父は土日をいちおう休むことに決めてしまった。あくまでもいちおう、なのだけど、子供に聞こえて困るようなことは全部聞こえないようにして、父一人でできるなにか書類仕事のようなものを片付けながら、僕にたとえば、鍵開けを教えた。

 思えば父はロマンチストだったのだろう。ロマンチストでなくて誰が子供に犯罪の技術を教えるものだろうか。究極的な性善説と言い換えてもいい。父さん、と僕は思う。そのたましいはりっぱに受け継がれているよ。鍵開けは業務で使ったことありませんが。

 ともかくそんなわけで、僕は窓を見上げて、そこに灯りを確認した。そこに灯りがついているということは、迷子が宿を借りているということだった。僕は彼に合鍵を渡しているし、彼はまだそれを持っているのだろう。僕は彼と酒盛りをする習慣はなかった。僕は酒盛りをしていい間柄の人間とそうではない人間を厳密に区分していて、彼は、明松啓秀という名前の若い友人は、僕の中では酒盛りをしてはいけない部類の人間だった。僕はそれを恋と呼ぶ。恋がそんなに簡単であってたまるものかと、あるいはそんなに大勢に適応されて(それは実際大勢に適応された)たまるものかと、笑いたければ笑えばいい、僕は父譲りのロマンチストだったし、それをやめるつもりはなかった。

 父は生涯をペット探しと浮気調査に費やしたが、どのような事件にも完全な熱意を持って臨んだ。そしてその熱情に適切な勢いで唐突な病魔に侵されて唐突に死んだ。母は泣いて、彼女の人生を続けた。僕は彼らの人生のおこぼれをもらった。つまり僕はいまでも母と一緒に暮らしているし、父の事務所以外の場所で働いたことはない。

 明松啓秀くんはアルバイトをしたことがあるだろうか、と僕は考えて、すぐにやめた。それはなんだか一緒に酒を飲むみたいな越権行為に思えたからだった。僕は明松啓秀くんのことを特別な人だと思っている。僕はいろいろな人のことを特別な人だと思っている。それが啓秀くんひとりに適応されるわけではないとしても、僕が恋をしているということに違いはない、と思う。僕が言いたいのは、特別な人にするということには、それ以上踏み込んではいけないということが含まれている、と、僕は、思っている、ということだった。

 もう夜だった。調査を終えて帰ってきてコーヒーでも飲んでから自宅に帰ろうかと思っていたけれど、窓に光をみとめたので、僕は事務所に戻らなかった。僕は家の前を素通りして、コンビニエンスストアに行った。街路樹の脇にガードレールを背にして、カップに入った氷に、ビールを注いだ。ビールは泡立って、静まった。僕は氷の浮いたビールがぺなぺなのビニールコップに入って車の光に照らされてへんな色にかがやくところを眺めていた。なんだか恋みたいだなと僕は思った。春の終わりのぬるい風が吹いていて、僕に誰も目を止めない、誰も目を止めないのは探偵の最重要の才能だと父はかつて僕に言った。ビールがゆらゆら揺れて僕は幸福だった。春のおわり。


 夏のはじまり。

「――氷、いらなくないですか」

「きれいじゃない?」

 僕は笑って言って、コンビニエンスストアから歩く道で、渡されたビニールコップを危なっかしく桂さんは持って、桂さんは僕の助手で、それは啓秀くんをお見舞いに行った帰り道なのだった。僕たちはおそらく道を間違えていて、車の通らない暗い夜道を電灯めあてに歩き続けていて、コンビニエンスストアを見つけたので入って、買い物をして、また歩き始めたところだった。桂さんはこういうとき、ちゃんと、駅までの道を、店員さんに聞く。僕は桂さんがそれを、というのは人に話しかけるのを、不得意だと知っていて、するがままにさせているし、笑って言う。「さすが僕の桂さん」

 人の気が狂うところを見たことがある? 僕はあるよ。

 恋した相手が気が狂うところを見たことがある? まあもちろん、母数から言ったら、僕はそれを目にしやすい立場なわけだけど。

 それはたぶん越権行為だったんじゃないのかな、と思って、たぶん僕がいま、さっき病院で見た啓秀くんに対して抱いている感情は、もう、少なくとも幸福な何かではなくなっていた。それはたしかに変質していた。啓秀くんは笑った。笑って、「おれはたぶんそこに住まないですよ」と言った。なんの話かというと、僕は一人暮らしをしようかと思うんだよ、と、啓秀くんに言ったのだった。僕はもう啓秀くんに恋をしていなかったのに、というのは、彼を見ても幸福な気持ちにはもうなれなくなっていたのに、僕は一人暮らしをして彼の帰る場所になりたくてそう言って、啓秀くんは賢い子なので、僕のなんだかよくわからない下心に極めて近い何かに対して正解を出した。

 下心に近い何か。エロい何かではなくて。

 ――男の子はいつだって、ヒーローになりたいものでしょう?

 夏になる少し前で、ぬるい風が吹いていた。ぺなぺなのビニールコップは僕によく似ている。僕は傍らに助手を置いて夜道を歩いている探偵で、僕はいまその暗闇になにも見ない。桂さんは手を持ち上げてビールを飲んだ。氷の浮いたビールを飲んでいる桂さんを僕は見上げている。そのとき向こうから車が走ってきてハイビームがビニールコップの中のビールの中の氷を照らした。僕は笑った。

 僕の桂さんはすごいんだよ。

 僕の名前は南方睦実といい、私立探偵で、たぶん永遠に恋をしていて、永遠にヒーローになりたがっていて、たぶんそれは永遠に、叶わない。

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