天国はあなたの名前である(4)

 たぶんそれを友達と呼ぶのだったのだろう。

 おれの名前は向田忠夫といい、顔と名前が一致しすぎていてかえって覚えづらいと言われることがあるが、それも特別度々のことではない。おれは基本的に名前を他人に名乗らないし、おれは大抵の人間を他人と呼ぶ。筑地くんはそうではなかった。おれが彼をそう呼ぶまでにはそれなりの時間がかかったが、それでもやはりおれは彼を友達と呼ぶに至ったし、今でもそう呼んでいる。

「この映画俳優は」

 指さしているおれの掌を握った小さな子供がいる。契約上おれの妻と呼ばれる人が生んだ子供の、そのまた子供であり、血縁上おれの孫であることにはなんの疑問もないのだが、下世話な話をすればおれの妻はおれ以外の相手と交渉を持つほどそれに執着をしているようには思えないし、鼻の加減だとかがおれによく似ているのでまあおれの孫であることを誰も疑いはしないと思うのだが、それはそれとしておれはおれの血を分けた三人の子供たちが生まれたときから今まで、おれの子供、と呼ぶことができない。

 それはおれの欠落のひとつだ。

「おれの友達なんだよ」

「きれいな人」

 息子が足を止めて見上げたポスターを、見た、瞬間胸が押しつぶされるような気がして、それからもう一度今度は本当に心臓が潰れた。おれはそれを感じるべきではなかった。おれはおれの妻の子に向かって加害者を見るような眼をむけるべきではなかった。だからおれは子供を見ないふりをした。

「すごくきれいだ」

 小さな男の子がそんなことを言うのは間違っているなんて思うべきではなかったのだ。

 発端は猫が訪ねてきたことだった。

 おれがたしか32そこそこ、長女が生まれたばかりのころだったと思う。おれが長女を「おれの長女」と呼ぶことができない理由は、その環境においておれがあいもかわらずだらだらと独り身のように暮らしており、ちょっとしたアルバイトとちょっとした手仕事をやっていたということだけでお分かりいただけるのではないかと思う。

「猫を殺すための道具がほしいんだよ」

 おれはあらゆる街でむっくんと呼ばれていて(そして大抵の人間はおれの本名なんてかけらもしらない)、ちょっとした便利屋のように扱われている。そのことを彼に、猫と名乗った少年に、誰かが吹き込んだのだろう。

「猫」

「うん」

 おれは少し首をかしげた。猫を殺すことは別に構わない。おれは人間をふくめた動物という動物がたいてい嫌いだし、人間を殺すことに関しても特に思うところはない。それはそれとして、だからといってはいはいと猫を殺す道具を与えるわけにはいかない。第一にそんなことを気軽にやっていたら要注意人物としてマークされてしまう。おれのようなフリーでやっている人間には、まあこれは格好良く言い過ぎだが、できる限り目立たないように立ち回ることは最重要課題だった。それからもうひとつ、猫を殺すなんて簡単すぎてきりがないからそんなことに協力することはできない。

「なんで?」

 おれは目の前の椅子に指をさし示しながら言った。少年は嬉々として座り、身を乗り出して語り始めた。それは奇想天外な話で、おれは半分くらい寝ていた。前日夜勤だったのだ。

 むかしむかし、一匹の猫がいた。

 古来より、狐、狸、蛇と並び、猫は人間に変身する能力のある生き物である。人間に変身して電車に乗っていた猫は、混雑した電車の中で、性器を、雄猫だったので男性器だったのだが、とにかく性器に人間の手が触れている、それも故意に触れていることに気づいた。さてと猫は思った。ここで抵抗するのは簡単である。しかしこれが人間の発情を示すものであるならば、人間の発情に身を任せてみるのも一興ではないか。

 そう思いながら猫が顧みて発情した人間の顔を確認しようとしたそのとき、横から小さな、しかしよく通る澄んだ声が響いた。雨上がりの空気のように澄んだ声で猫はうっとりとした。

「やめてください警察呼びますよ」

 発情した人間の手が一瞬引いた瞬間、強い力で前足をつかまれた猫は、そのまま電車から飛び降りた。警察というものを猫は知っていた。よくはわからないがさっきの発情行動は間違ったものであったらしいということと、自分は助けられたらしいということを理解した猫は、顔をあげて、おどろいた。

 それは猫の目からしてもはっきりと美しい青年だったからである。

 このような美しい人間とであれば、発情期に情を交わし合うのもよいだろうなあと猫は思った。そうして猫は「なにかお礼をさせてほしい」と言った。人間は「いらない、それより気をつけなね、ほっとくとトイレに連れ込まれたりするから」と言った。

 人間に名前を問うと、どうでもいいような口調で、築地、と言った。猫は「なんてすばらしい名前なんだ! 天国の名前じゃないか!」と言った。人間は遠い目で、ほんとうにどうでもいいという口調で、「おまえは?」と聞いた。猫は「マルヤ」と答えた。それが彼の名前だった。つまり、食事を与えてくれる老婆が、彼を呼ぶときの。

「だからおれは丸谷柊っていう名前を自分につけた」

 おれにそこまで語った少年は笑って言った。「柊っていうのは、おまつりのときにつかうものでしょう? 神様にあげるものだよね? それって、天国に行ける名前だよね? おれはその下に住んでたんだ、みんながいなくなったあとにね。みんなっていうのは、かあちゃんと兄弟のことだけど」

「マルヤは」

「死んだ! 猫はたいてい交通事故で死ぬよ」

「じゃあ別に猫を殺す道具なんかいらないじゃん、ほっとけば死ぬだろ」

「でもおれはおじさんを守らなきゃいけないんだよ、おじさんはおやじの親友だったんだからさ」

「何の話?」

 物語には続きがある。

 むかしむかし、人に救われた猫がいた。

 人に救われた猫は、人になにかを返したいと思った。その結果、猫は、猫たちの間で秘宝とされているとあるものに手をつけた。それが何なのかはしかし誰も語らない。だからもちろん柊も知らないし、柊を追っている猫たちも知らない。ただそれをマルヤが盗んだということと、それをマルヤが誰のために、あるいは誰と共謀して盗んだのかは明確だった。その人間は天国の名前を持っている。

 その人間は天国の名前を持っている!

 それなら、と猫たちは言った。何なのかわからないそれらを手に入れるより、猫たちの秘宝として、その人間を手に入れればいいのではないか。マルヤがいうにはとても美しい姿をした人間で、この人間となら人間であっても番ってもいいと思えるような人間だったということだった。人間を殺すなんて簡単だ。寝ている間に皆でのしかかって穴という穴を塞げばいい。美しい形のまま殺そう。傷ひとつつけないように。

「そんなのはだめだよ」

 柊は言った。

「だって築地さんは、おやじの親友だったんだから」

「覚えてる?」

 おれは尋ねている。

 おれに話を聞かされた男が、真っ青な顔をして呻いている。指がそろりと自身の内股を撫でる。おれは向田忠夫という名前だが、その名前で人がおれの名前を呼ぶことはほとんどない。なぜならおれが、目の前に座った、調べた通りなら三十も近いはずなのに十七・八の子供にしか見えないひどく澄んだ目をしたおぞましいほどにきれいな男が道を歩いているだけでどんな目に合わされるか知っている、よく知っている、なぜならおれはそれをする側の人間だからだった。

 人間が死のうが生きようが知ったことではなかった。

「マルヤのことを覚えてる?」

「……おれはなんにも覚えてないんだ」

 その男の名前は瀬野築地という。名前を構成するすべての要素が大地を表すその名前の空虚さがおれは嫌いではなかった。

「おれはなにも覚えないように生きようと思っていた」

 おれは人間が好きではなかったし、ましてや男という生き物はすべて妬心の塊だと思っている。けれどおれはいま目の前にいる男に、いらだちすら感じるほどに同調していた。(おれは四歳のときといえばクラス中の女子がおれを好きでおれはそのことでえみちゃんに嫌われることにひたすら怯えていて、たしか十歳の時教師がー―それで十四歳のとき何もかも嫌になって)どうしてあいつらは。

 そのときあいつら、と呼んでいた彼らが誰のことなのか、もはやおれにはわからなかった。

 たぶんそこには柊すら含まれていた。

 青ざめた築地が唇を震わせる。『だって築地さんはおやじの親友だったんだから』『おやじの親友だったんだから』

「……柊がおれを救ってくれるまでは、」

 おれは瀬野築地のことも嫌いではなかった。でもたぶんその日瀬野築地は死んで、

「おれは全部忘れないと、生きていけなかった」

 ポスターのなかで何も見ていない永遠の少年の名前を、月山柊次という。

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