皆方探偵事務所異聞 南方睦実の恋情1

クトゥルフ神話TRPGシナリオ「ニジゲン」「わたしのいちばん大切なひと」のネタバレを含みます。TRPGされない方はとくに気にせずご覧になってください。

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 その日僕の目の前で彼は微笑んでいて、彼はとても幸福そうに見えて、僕はまったく幸福ではなく、僕は自分をひどくおぞましいもののように思った。僕は甘い酒を水のように大量に飲んでいて、それなのにとても喉が渇いていた。目の前にいる彼は桂司郎という名前で、南方睦実、つまり僕の部下であり同僚であり、探偵業の相棒役とも言える相手で、そうして僕は、彼に今、どうしても言わなくてはならないことがあるのだった。

「桂さん僕はね」

 はい、と、桂さんは言った。一応の個室になっている座卓の大衆居酒屋で、僕たちは知り合って二年、そりゃ出先のホテルで仕事を終えてビールの一本も飲んだことはないではなかったけど、こんなふうにゆっくり飲むのははじめてで、はじめて酒なんかをちゃんと飲み交わしていて、つまり僕は桂さんが酒に弱いということをここで唐突に知った。唐突にっていうか、いや、誘ったんだから、そりゃ、わかることだったんだけどさ。

 喉が渇く。頭が痛い。心臓がどくどくと音を立てているのがわかった。それは興奮しているからじゃなかった。

「桂さん僕は、桂さんに恋をしているんだと、思います」


 僕は人生で一度だけ、本当におぞましいものを目にしたことがある。それはかつて探偵としての捜査のさなかで出会ったもので、僕が捜査したなかで「事件」と呼べるようなご立派な案件は、それ一個きりで、忘れることができないのは、だからなのかもしれない。おぞましいそれは、黒い、のたうちまわるインクのかたちをしている。それは僕の目の前で姿を消したのに、それは今でも僕の夢のなかを這い回っている。

 そして僕は、僕の夢の中で、もはや、「それ」と自分の区別をつけることができない。僕は自分をおぞましいものだと思う。

 お母さん、と呼ぶ、桂さんの声のことを、僕は考えている。

 そのおぞましいものに関連して起こった、世間では連続死体遺棄事件と呼ばれている事件が終着して、業務を再開できるようになって、ありふれた、いつもどおりの浮気調査に、海辺の町に出かけた。今となっては笑えるのだけれど、僕たちはその日同じ部屋に泊まったし、交代にユニットバスでシャワーを使ったし(僕が先だった)、ダブルベッドの両端に離れて眠りさえしたのだ(それは結構よくあることだった)。僕は自分がどこか変質しつつあることに気づいていたけれど、それは人間が死ぬところを見たから、そしてそれを止められなかったから、落ち込んでいるだけなのだろうと思っていた。変な夢ばかり見るから、目を覚ましていても夢を見ているだけなのかもしれないと思っていた。僕はなんだかぐちゃぐちゃで、捜査に同行していた啓秀くんを危ない目に合わせてしまった責任を取ることはできそうにないということや、桂さんがやさしくて格好よくて僕が彼の上司でいることは彼の人生のお荷物なんじゃないかということをくよくよ考えるのをやめられないでいた。

 海辺の町での仕事を終えて、僕は桂さんの運転するレンタカーに乗って、海辺の道を駅に向かって走っていた。断崖絶壁のすぐそばを走る車を、霧が包んでいた。急に車が止まった。桂さんがいぶかしんで、扉をあけた。

 そうしてそのとき僕たちは聞いた。


「この間、交通事故にあったときの、変なの。桂さん、覚えてる?」

 僕はもちろんべつに真っ先に恋心について言及したわけじゃない。僕は話が長くてうるさいことで有名で、だから僕はゆっくりと切り出す。桂さんはぼんやりと首をかしげた。

「霧が出てきて、車が止まって。変な建物みたいなのから、声が聞こえて」

「……あれ、ほんまにあったんですか。夢でも見たかと……」

「夢じゃないよ。……桂さん。あのとき、お母さんを見たんでしょう」

 僕たちはあの日、霧の中で、奇妙な建物を見た。建物? 違う、それは、僕の目には、桂さんの顔に見えた。先生、と、僕を呼んでいる、桂さんの顔に見えた。痛切に僕になにかをしてほしがっている、桂さんの声を僕は、一度だけ聞いたことがあった。あのとき。

 連続死体遺棄事件の犯人。犯人? 元凶、というべきか。インクのかたちをした怪異の前で恐怖に僕の意識が飛びそうになったとき、桂さんが叫んだ。ーー先生!

 先生、早く殺して!

 意識がぐちゃぐちゃになる。わからなくなる。僕の手は震えて、それをできない。啓秀くんが僕から凶器をもぎとる。啓秀くんがそれをする。彼の目は奇妙に澄んでいていっそ狂って見える。僕は何もできない。僕はあの日、なにもできなかった。

 あいまいな霧の中で、目の前にたしかに桂さんがいる。桂さんがしろと言ったことをあの日、僕はできなかった。今はできる。僕は桂さんが呼ぶ通りに、桂さんに向かって手を差し出す。桂さんが求める通りに、桂さんの名前を呼ぶ。

 並んで立っていた桂さんの声を、僕は確かにあの日、聞いたと思う。

 気が付くと僕たちは病院にいて(僕は連続死体遺棄事件の際にも病院送りになったので、とんぼ返りというわけだった)、僕は一緒に入院していた桂さんが隣のベッドで僕を、先生、と呼ぶ声で、目を覚ました。

「先生」

 そうしていま個室居酒屋で、トレードマークのマスクをはずして、子供の頃に負ったという生々しい火傷痕を紅潮させた桂さんは、僕の目の前で目を瞬かせて、細めた。

「……待ってください。なんで知っとるんですか」

「聞こえたので……」

「先生も。……先生は俺の母を見るわけはないですよね。先生のお母さんですか?」

 僕は残念ながらそこで笑う度胸はなかったのだけれど、すこし可笑しかった。第一に僕と母の関係はべつに悪くもないけれどめちゃくちゃに愛し合っているというほどのものではない。そして第二に僕は桂さんのお母さんに、入院している桂さんをお見舞いに来た桂さんのお母さんに先日会っていて、彼らがそれはもうめちゃくちゃに愛し合っているということはひと目ですぐにわかった。桂さんが優しい、というか、僕を、ちょっとやりすぎじゃないかというくらい過保護に甘やかす理由も、それでわかった。彼はお母さんにされたことをそのまま他人にもしているだけなのだった、多分。それが彼にとっては当たり前のことで、それが当たり前になるくらい、お母さんは彼を抱きしめる必要を感じたのだろう、多分――頬の火傷。一生消えない大きな傷痕。桂さんはそれが見えないように扮装を凝らして外出するときどこか誇らしげだ。その方法を教えたのが誰なのかなんて、簡単すぎる推理だ。

 彼らの間にある純粋なものに比べたらさ。

「あのね、桂さん。僕はあのとき、桂さんが見えたんだよ」

 桂さんはゆるりと数回、瞬きをした。それから、ひどく真剣な顔で、こう言った。

「……失礼ですが、ご家族仲が……」

 僕は笑う余裕はなかったですよ。「母のことは普通に好きです」

「先生」桂さんはますます真剣な顔になった。「そんなに友達がおらんのですか?」

「あのね、桂さん僕はね」

 プラネタリウムに行った。

 桂さん、プラネタリウムに行ったことはありますか? ないですか? 僕はプラネタリウム、結構好き、よく行くんです、ちょうど池袋だし、ちょっと寄って行きませんか。奢ります。桂さんは僕が緊張すると敬語になることを多分、知らない。僕に興味がないので。

 彼が僕を庇うのは、彼の業務がそうで、そして、そのように生きろと愛する人に示されたからなのであって、僕に興味があるからではないので。

 映画の趣味はたぶん合わない。いきなり動物園や水族館はたぶん不躾だし、業務時間外にまで桂さんを人ごみに連れ出すのは気が引けた。並んで座っていればいい時間が欲しかった。勇気を出す時間がほしかった。

 プラネタリウムのプログラムが終わって場内が明るくなったあとも、桂さんはぼんやりしていた。そうして小さな声で一言、よかったです、と言った。僕はそのとき彼をきれいだと思った。ぼんやりとまぶたを何度か動かしてなんの感情もないからっぽの目で僕を見た桂さんをきれいだと思った。そして僕は伝えなくてはならないのだろうと思った。

「桂さん、僕はね、桂さんに恋をしているんだと思います。でも、それは、間違ったことなんですよ」

 桂さんはなにを言われているのかまったく意味がわからないという顔をして、「はあ」と、息を吐くような音を立てた。僕は言い聞かせるように続けた。なんだか目の前にいるのが小さな子供みたいに見えて、僕は泣き出したいような気持ちだった。

「桂さん、僕は、桂さんに対して、業務外の、個人的な感情を抱いていて、それは、暴力なんですよ」

「暴力」

「僕は桂さんの上司で、桂さんを金銭的に拘束している立場で、そういう立場の人間が、部下に対して、業務とは関係のない、感情を、抱くのは、抱いたままあなたのそばにいて、毎日一緒に行動して、一緒のホテルに泊まったり、こうやって酒を飲んだりするのは、全部、間違ったことで、暴力なんです……桂さん」

 僕はそこまで喋って、ふいに、しゃべりすぎた、と思った。たぶん桂さんは理解できない、と、唐突に僕は思った。桂さんは優しいから、暴力というのがなんなのか、僕のような貧弱な人間でも精神的に桂さんを追い込むことができるということがどういうことなのか、優しいから、愛されて育ったから、そしておどろくほど自分を守るすべを、知らないから。この人は。たぶん。桂さんは僕をまっすぐに見ている。先生、と桂さんが僕を呼ぶ前に、僕は言葉を重ねた。逃げるように。

「ごめんなさい」

 夢を見る。

 夢の中で僕はずるずると蠢く黒いインクになって、人間たちを殺すことができる。僕にはそれができる。僕はそれをしなくてはならない。僕はそれをする。同時に僕にはそれができない。僕にはなにもできない。ただ僕は人々が死んでいくのを見ているだけだ。自分がそれをしたと知りながら、自分ではどうすることもできないままで。

 ――先生、早く!

「あなたに先生と呼ばれる資格は僕にはない。ごめんなさい」

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