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食べ飲み放題三千円

 昔は二千円だったような気がする。当時三千円というのはかなり敷居が高かった。しかし昔というのは十年も前の話だし、十年前というとワーキングプアという言葉が日本でようやく出回るようになった頃だ。十九世紀の終わりごろだか二十世紀のはじめごろだかにアメリカで提唱されたとされるこの社会問題が日本で浸透するまでに百年近くかかりそして実を言うと多分浸透はしていないし何の解決策も練られていないままわたしたちは社畜と無職の間で労働という定義を解体しつつある。そして物価は上がっているらしい。飲み放題二千円が三千円になってる。

「たださあ、その飲み放題二千円っていうのも今となっては万馬券のようにおぼろげな記憶なわけじゃん」

「万馬券は実在しない」

「するよ、おれの手元にないだけだよ」

「観測してないものを実在するとどうやって証明するの?」

「希望ですよヘイスティングズ、人間はね、夢見る生き物で、儚い幻に縋ることで生きる力を得られる生き物なの」

 ヘイスティングズ大尉は名探偵エルキュール・ポワロの助手を(作品によっては)務める人物だが、わたしと彼の間にポアロとヘイスティングズに対応するような関係性はないし各々特に似てもいないと思う。自分の灰色の脳細胞に謝れ。ヘイスティングズって言いたいだけだろう。語感がいいのはわかる。なおこの近辺には競馬場はない。三年前に最後のひとつが廃止になった。彼が実質的に行っているのは競艇であり、万馬券というのは比喩だ。

「その理屈でいうとたった二千円で金のない大学生が薄いウーロンハイと冷凍食品まみれの幸福な宴会を催せたのも儚い幻にすぎず、青春の一ページが美化されているということになるね」

 「ガチ勢」と彼はこの店で知り合った。

 過去何度か述べた通り、彼は女性関係(男性関係も含まれる可能性は大いにあるが、古典的な表現として女性関係と呼ぶ、彼自身彼の性交渉に含まれる相手を十把一絡げに女と呼ぶわけだし、おそらくそこで女というキーワードは別に性染色体xxをしめしているわけではない)において一発やっておしまいの極めて清らかな関係を維持している。もちろんこれは皮肉だがサッパリしているという意味では限りなくサッパリしている。

 彼は携帯電話を含むすべての電話連絡手段を持っていないし、住所はあってなきがごとしものなので、それで何故時々バイトができるのか心底不思議なのだが、何故彼がそのような生き方を貫いて定職につかず灰色の脳細胞をおうまさんを見つめるためだけに費やしているかというと、結局女とあとくされなく寝るため以上の何でもないのだった。なんて頭がいいんだ。もちろんこれは皮肉である。

 ガチ勢と彼の関係はそうではない。

 ガチ勢はわたしの大学の後輩だ。素直であることと行動力があることに関しては群を抜いており、その結果研究においてもはやジョークかというレベルのミスがあることで皆に愛されていた。足を引っ張られる立場で関わりさえしなければ良い奴で、足を引っ張られたら一発で沈む程度の生活水準でぎりぎり生きているわたしはいまあいつに関わることはできない。聞いてくださいよ先輩と言う声に耳を貸したが最後半年くらい愚痴に付き合わされて、とても口にできない時給換算のわたしの大切な時間が消滅する。

 目の前のポアロ(ポアロに謝れ)経由で話を聞く方がまだましだ。彼は長話はしない。

「あいつがおれを、えー、なんていうの? あれは好きとかではない」

「好きとかいう感情がそもそも君にわかるのか」

「今その話いいよ」

 昔この店はやたらにでかいジョッキに薄い酒が入って出てくる上にメニューが揚げ物と揚げ物と揚げ物とあきらかに冷凍の枝豆くらいしかなかった。枝豆は突き出しだったので毎回食わされた。わたしはわたしの実家が嫌いだが、田舎育ちなので、冷凍ではない枝豆の味を知っていたことが不幸だった。そしてわたしは揚げ物を好まないので、皆ほとんど手をつけていない枝豆ばかりを食べていた。とても楽しかった。ポアロが何故そこにいたのか覚えていない。来たいなら来ればいいとわたしが言ったのかもしれないし、勝手に来たのかもしれない。これだけは確かだと思う。物的証拠はないが状況証拠はある。彼は二千円を払わなかった。多分。

 ガチ勢が払った。多分。

「好きとかではないあのガチっぷりは、結局、あれじゃん、万馬券じゃん、そんなもんはこの世にない、いや、あるけど、手に入らないことに意味があるんだろ? そんなもんは個人に期待しないでくれ、いつになったら、どうなんの、あいつだっていい加減アラサーだよ、笑い事じゃすまねえだろ」

「恋に年齢は関係ない、『春にして君を離れ』は読まなかったの」

 十年前、わたしたちの通っていた大学のそばには飲み屋の類がなく、この店まで一駅をわたしたちは賑やかに歩いた。何か理由をつけてはここにきて薄い酒を飲んで騒いだ。広いという意味では間違いなく広い店なので十人でも二十人でも平気で集まれた。歌いだす奴や寝る奴はいても吐いたり暴れたりした奴がいた覚えがないから品のいい大学生だったのだろう。わたしはずっと枝豆を食べ、「注文しすぎて残さないように」と苦言を漏らし、温かい飲み物のメニューがひとつもないせいで体が冷えるとラーメンだか雑炊だか、そういったものを注文した。

 今では熱燗をつけてくれるようになっていた。わたしたちは午後五時から飲んでいて、大学生やそのほかの団体客がやってきては賑やかに騒ぐのを眺めていた。好むと好まざるとにかかわらずポアロのガチ勢は彼の人生のなかに組み込まれ、彼はその側面を切り捨てることができない。彼がどれだけしがらみのないセックスを追求したとしてもガチ勢だけは振り捨てることができない。

「万馬券が幻じゃないってわかってよかったじゃない」

 彼は胡乱な目つきでわたしを見ている。

「自分が万馬券だったんだから」

「うれしくない」

「象は忘れない」

 彼は仏頂面で優秀な生徒のように言った。「そして必ず報復する」

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