愛の定義

 オタクは愛についての話をしたがります。愛があるから大丈夫とか、愛がないからダメとか。さて愛というのはなんのことなんだろうか。「なにかを愛する」というのはいったい何のことなんだろうか。

 「愛」という言葉はもともと漢語です。LOVEは英語。どちらも輸入された言語で、日本人にとっては曖昧な言葉です。「愛してる」と言われて「それはつまりいったいなんのことなの」と問い返された場合、わたしたちはいったいなんと返事ができるでしょうか。大抵「好きってことです」くらいで手を打つと思う。つまり、和語に直すと思う。日本古語において愛という言葉は「愛し」というかたちで使われます。かわいい、という言葉がそのうち「かわいいからつまりいとおしい」「いとおしすぎて切なくなる」みたいな使われ方になり、「かなし」は「愛し」から「悲しい」になりました。

 といった専門的なお話はもっと専門的な資料を当たっていただきたいのですが、ここで扱いたいのは、日本語の「愛」って何なのか、たぶん具体的には誰も知らない、ということです。でもたぶん「かわいい」はわかる。「かっこいい」もわかる。「好き」もわかる。「好みたる」の用例は万葉集に遡れます。「多くのものの中から特にそのものをよしとして選びだす」と日本国語大辞典にあります。オタクがやっているのはまさにこれであり常にこれであり、そしてこれ以上でもこれ以外でもないでしょう。わたしたちはそれらを「好む」のです。そこにあるのは別に愛ではない。それを愛と呼ぶなら愛かもしれませんが、愛ではないのではないかと言うことは不可能ではない。愛という言葉は日本語のなかであやふやな位置を占めていますが、「好き」の意味、「好み」「好む」の意味は明確です。そしてオタクがどんな形でそれを発露しようと「好んでいる」のは明確です。なんだか自分でもよくわからない言葉を使っているなと思ったら、別の言葉で言い換えることは可能かどうかを模索したほうが、その言葉の定義がよくわからないことで悩むより手っ取り早い。

 オタクが口にする「愛」はしばしば「ない」ものとして扱われます。「愛がない」。でもその場合言及されているのは「消費の方法が粗雑である(ように見受けられる)」とか「不誠実である」とかいうことが言いたい、ということがほとんどです。言い換えることができる。じゃあ不誠実とは何なのか。何が気に入らなくて何が糾弾したいのか。他人の感情を「ある」か「ない」かと忖度することはできません。それは他人の感情だからです。感情なんてあると言い張ってしまえばあるのだから、もっと具体的な、目に見えるものについて言及するしかない。

 さて、「あなたは愛がない」を「あなたのオタクとしての態度に不誠実な側面が見受けられる」と言い換えましょう。この場合の不誠実として糾弾されている論点は、たとえばキャラクターのフィギュアを予約注文してキャンセルすることであるとします。キャラクターのフィギュアを予約注文してキャンセルすることがなぜ不誠実なのでしょうか? また、これは、誰に対する不誠実なのでしょうか? おそらく「公式」「版権元」ひいては「業界」に対する不誠実です。しかしこの場合、「納得のできない買い物をそれでも続けること」はそれらに対して誠実な行為なのでしょうか?

 「愛がない」を言い換えた形として「不誠実である」、さらに「不誠実である」を言い換えた形として「買い支えるのは役目である」が発生します。これは「そうではない」とは言い切れません。経済が動かなければ欲しいものが作られることはないからです。しかし同時に「絶対にそうだ」とも言い切れません。たとえば粗悪なものであっても買い支え続けてしまったことによって製品のアップグレードが行われない可能性もあるからです。

 というわけでたとえばこの問題はそれこそ「好み」の問題です。わたしたちはなにかを「好む」体験を重ねることでオタクと呼ばれる存在になり(あるいは自ら名乗り)、オタクであること自体を「好んで」継続し、そのなかで選択せざるを得ないことのなかで「好ましい」ほうを選択していく。それが誰かにとっての不誠実にあたることは確実にありえます。なぜならわたしの好みはあなたの好みではないからです。

 好みの世界に正解はありません。

 好みしかありません。


 下には何も(略)投げ銭箱です。

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