皆方探偵事務所異聞 さよならの作法(3)

 唐突に、桂司郎は自分が幽霊になっていると気づく。

 幽霊? たぶん。桂はこれまでオカルトじみたことをあまり信じてこなかったのだが(彼のまわりにオカルトがなかったということではない、オカルトに類することは彼の周囲では何度か起こったのだが、彼はそれをオカルトとしてほとんど知覚しなかったのだった)、少なくとも自分が、空間に浮かんだ状態で、自分の肉体を見下ろしているということは理解できた。彼の目の前にはへたり込んだ彼がいて、どうして動かないのだろう、と桂は思った。桂は目の前にいる自分を動かそうと手を触れようとして、手を触れることができない、ということに気づいた。そうして、どうやら、とそこで気づいたのだった、自分は幽霊になっていて、でも別に目の前の自分はうつろな目をしているだけで死んではいないようで、つまり――

 つまり?

 桂司郎にわかるのは、何か異常が起こったのだということと、おそらく取り返しはつかないということだった。

 そうして、この異常事態に際して一緒に巻き込まれていたふたりの少女の安全は確保された、ということも、彼は確認することができた。走ってくる少女たちに桂は目を細め、じわじわとやってくる不安感から、目を逸らそうとした。自分はすべきことをしたのだ、と思った。正しいことであるかどうかは彼にはわからなかった。正しいというのがどういうことなのか、彼にはずっと、よくわからなくて、ただ、すべきことをしたのだ、と、思った。「桂司郎」が、すべきことをしたのだ、と思った。

 「桂司郎がすべきこと」を、かつての彼なら、「彼の母がそのようにするであろうこと」と、規定した、自分はもうそのように考えないということについて、桂はぼんやりと考えた。いつのまにかあたりはぼんやりとカスミがかかったように遠ざかっており、自分の体も少女たちも、目の前にはいなかった。桂は歩くように、あるいは泳ぐように、あるいは単に浮遊するように移動をはじめた。自分がどこへ向かおうとしているのか、自分でもわからないまま、桂は視界に映る光のようなものに向かって移動し始めた。

 南方先生、と、桂は思った。

 桂司郎は京都で生まれ育ち、子供のころ大きな火事でやけどを負った。桂がそれにコンプレックスを抱かずに育つことができたのは母親がそう育てたからだった。彼はごくあたりまえのこととして、母親を愛して育ったし、歳の離れた妹に向かっても、母から注がれたままの愛をごく率直に渡した。

 彼が南方睦実を愛した方法は、けれど、それとは少し、違っていた、と、桂はぼんやりと考える。なにがどうとはうまく説明できないけれど、お母さんを好きなように、あるいはお母さんがおれを好きでいたように、南方先生を好きでいたわけではなかった、と、桂は思う。それは新しい人生だった。そこには「責任」があった。

 せんせい、と桂は虚空に向かってつぶやいた。

 せんせい、おれは、先生の好きになってくれたおれでいたかったので、あの子らをたすけたのは、間違いではなかったと思うとるんですよ。

 南方はどう返事をするだろうな、と、桂は思った。それを思うとすこしわくわくした。別に伝えなくてはいけないような種類のことではないけれど、別に伝えなくても南方はわかってくれるのではないかという気がした。

 光はずいぶん近くにある。桂は誘われるように光の中に足を踏み入れた。

 そこは放送室だった。


 中村善彦という名前の青年が、南方睦実と桂司郎、そして時々明松啓秀がかかわるこの物語に顔を出すのはほんの一瞬なのだが、中村善彦が愛妻とともに築いたスイートホームには末永く南方睦実からの年賀はがきが届くことになる。善彦はある日、ラジオに出演する奇妙な夢を見た。その夢の中で善彦は、うさぎの着ぐるみを着たDJから、寡黙な青年とふたりゲストとして扱われることになった。寡黙な青年は桂と名乗り、善彦は、彼のことを、末の弟によく似ている、というか、末の弟が子供だった頃、うまく喋れないもどかしげな子供だった頃によく似ている、と思った。

 夢の中で善彦は恋愛の話をさせられた。桂くんももちろんさせられたのだが、桂くんは夢のラジオの中で、本当にほとんど喋らなかった。おどろくほど喋らなかったので、夢とはいえ善彦は放送事故を心配したものだった。夢の中で善彦はよい活躍をしたと褒められて、そうそう、ここがおかしいのだが、目が覚めたらディナークルーズのチケットがまくらもとにあった、いやもちろん夢の中から持ち帰ったということはあるわけがないから、うまく思い出せないだけで誰かにもらったんだろうけど――

 あれは単なる夢ではなかったらしいということに気づいたのは、翌日の夕方近く、職場に電話がかかってきてからだった。

「中村善彦さん。昨日、ラジオに出演されましたか?」

 電話の向こうの若い声はそう言った。

 夢のラジオを聞いたのだと青年は言った。そして、桂司郎の身内であるということと、桂司郎について話を聞きたいのだと、何度か繰り返して言った。善彦は折れた。薄気味は悪かったが、どうしても断らなくてはならないほどではなかったし、そもそも「夢のラジオに出演していた人物」であるというだけの情報から職場が割れているということのほうが怖いな、と善彦は思った。

 翌日仕事が終わってから呼び出されて出かけて行った喫茶店に、スーツを着た青年がいた。眼鏡をかけて、落ち着き払った様子で、「ご足労いただきすみません」と言って、善彦に名刺を渡した。「皆方探偵事務所 所長 皆方睦実」と名刺にはあった。

「電話でお話したとおりですが、僕は、桂司郎の身内のものです」

「はあ」

「桂は例のラジオの前日から、意識不明の状態で」

「はあ!?」

「……回復の見込みはないと言われています。医学的に解明されていないけれど、時折、そういうことはある、という、専門的な説明は僕にはできないんですが。……とにかく、そういったわけで、先日のラジオのときの桂の様子について、詳しいお話を伺いたく、今日はお邪魔しました」

 青年は頭をさげた。善彦もあわてて頭を下げながら、なんで頭を下げたのかわからないなと思った。青年はあきらめたように笑った。善彦はラジオの話をした、小さな子供のように見えた桂司郎の話をした、青年は笑った。

「桂さん、どうしてラジオなんか出たんだろう。喋るのが下手すぎてめちゃくちゃ笑ってしまいました」

「はあ、別に出たくて出たわけではなさそうでしたけど……」

 というか、僕だって出たくて出たわけではないんだけど、と善彦は思った。青年は笑い、小さく、「元気そうでよかった」とつぶやいた。


 桂はラジオ局から離れて、首をかしげながらふわふわと漂っていく。どうしてラジオなんかに出ることになったのか、見当もつかない、と、桂は思う。唐突に出さされたわりにはよく喋った、と思う。闇はどんどん濃くなっていく。せんせい、と桂はつぶやいて、手を伸ばした。手の中に、覚えのあるかたちがあった。桂は小さく笑って、「せんせい」ともう一度言った。ここがどこなのか、桂にはどうでもよいのだった。どうしてへたりこんでいた自分や女の子たちには手を触れることができなくて、ラジオ局の備品には手を触れることができるのかも、どうしていま、あたたかな体に手を触れることができて、抱き寄せることができるのかも、どうでもいいのだった。

「せんせい」

 真っ暗な闇の中で、桂は南方睦実を抱き寄せている。

「かつらさん」

 南方は返事をした。

「暗くて、怖いよ」

「そしたら、明るいとこ行きましょう」

 桂は南方を抱きしめたまま、顔をあげた。そこにはネオンサインをちかちかと瞬かせるなんだかうらぶれたバーがあって、空はまだらのもようにぐるぐると光っていて、あたりはうっとりするような甘いにおいであふれていて、そうして桂司郎はもふもふした熊の姿をしていて、南方睦実を見下ろしている。南方睦実は顔をあげて、笑いかけて、唐突に泣いた。桂さん、と、南方は言った。

「僕がずっと桂さんの側にいることを、許してくれる?」

 桂は少しあきれた。

「ずっとそばにいますって言うたのは、おれのほうやないですか」

「桂さん。僕を忘れないでね」

「わすれるわけないでしょう。ずっとそばにおるんやから」

「ずっと?」

「いまでも。ずっと」

 覚醒の世界を離れ夢のかなた、夢幻境と呼ばれる場所に、熊が一匹住むようになる。時々人間の姿になることもある。お酒を少し飲み、恋人について考えている。子供の頃はお母さんのことが好きだった。でもお母さんはおれがおらんでもだいじょうぶで、南方先生のそばには、ずっといるってやくそくでしたから、おれは、ここに、います、と、熊が言う。


 南方睦実はソファで目を覚ます。ひどく泣いている。腕に抱きしめた赤いラジオに向かって、南方はつぶやく。

「ソニーくん、ねえ、ソニーくん、桂さんは、君の友達は、まったく、ひどい男なんだよ、そうして、とても」

 南方睦実はもう少し泣き、そうして探偵の顔に戻る。

 彼の生活は「なにひとつ」変わらない。

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