白い腕


いつも一番後ろの窓際の席に座っている、長瀬君の左腕にはいつも白い包帯が巻かれていた。まだ一緒の中学に入るその1、2年前から、噂によると包帯が巻かれてあったそうなので、かれこれ3年以上は巻かれたままである。その包帯は手首から肘にかけて巻かれてあるのだけれど、ブレザーの袖にすっぽりと隠れてしまうので、制服を着ている分には目につかない。体育の時間になれば着替えなければならないし、夏になれば衣替えがあるのだが、長瀬君は温厚でいて先生たちを黙らせる威厳のある風変りな不良生徒だったので、体育の授業にジャージを着て出ることはなく、学則を守らなくても通ってしまうのだ。つまり、一年中ブレザーを着ているわけである。
 そして徹底して包帯を隠しているようにも思われる長瀬君の不良ぶりは、じわじわと学年中に広がっていった。害のない、地味な女子の一人だった私は、長瀬君の包帯にまつわる噂を耳にして少し怖くなった。左腕には龍の絵の入れ墨が彫られてある、不良仲間に負わされた火傷の痕が消えてなくならない、実は手首からどんどん腐っていく病気である、等々。
 根拠のない噂をたんまりと聞いていた私が、長瀬君と同じクラスになったことに驚くよりも逃げ出したくなるほどの恐怖を感じたのはいうまでもない。
 だけど信じられないことに、私と長瀬君は文通をするようになった。先生たちにも太刀うちできない、腕に何かいわくがある、温厚な不良と。
 実をいうと、名前順に並ぶと私の席は一番後ろの窓際の席になるのである。だからクラス替えしたばかりの頃は、長瀬君に席を変わってもらうように頼まれたのだ。もちろん、私はすぐさま立ち上がり、荷物を素早くまとめ、長瀬君の席に座った。長瀬君の席の机には、何かが書かれていた。たとえば、人間ってなんで完全な生き物ではないのに完全を目指してしまうのだろう、なんていう意味のわからないことが。
 どうせ読まれないだろう、と、私はその誰を相手にしているのかわからない問いかけに答えを書き足した。どんなことだったか覚えていないが、人間は欲ばかりだから、完全体になりたいのだよ、という感じのこと。それがきっかけだった。長瀬君は私の答えを読み、また机に書き足した。人間はどうして強欲になっちゃうのだろうか、という感じで。
 机でのやりとりは続き、ついには机に書ききれなくなって、ついに手紙を渡されるようになった。クラスの皆がいる前で長瀬君は渡すので、冷やかされないかと焦ったが、あまりに渡し方が滑らかなので、クラスの皆はそれに気づかなかった。その代り、私が渡すときは長瀬君の靴箱の靴の底に手紙を隠した。誰かに見られるのではないか、という冷や冷やした気持ちもいつからか嬉しい胸の高鳴りに変わっていった。
 手紙の内容は机のときのやりとりよりも他愛もないものだった。パンはヤマザキよりパスコの方が好きだけど、皿が欲しいからヤマザキのパンを集中的に買うことがある、とか。他愛もない、どうでもいいことばかり書き連ねていた。それは、長瀬君の包帯のことを聞きたいのだけれど聞いてはいけない気がして、変な気遣いをするようになったからだ。長瀬君も、包帯のことは一切語らなかった。だから、私は彼が必死に守っているだろう、その線を踏み越えることをしないように、と思った。でも、最終的に私は踏み越えてしまった。
 好きになってしまったのだ。恋愛経験も少ない中学3年生が恋に落ちるのは簡単だった。
彼の秘密を私だけが知っておきたいという変な独占欲が手を動かし、長瀬君に手紙を書いた。左腕の包帯はなんでしているの?と。
 暫く手紙は途絶え、嫌われたのかもしれないと私は深い後悔のなかに陥っていたとき、長瀬君が私を呼び出した。そして、立ち入り禁止の屋上の前の階段に二人並んで座って、長瀬君は何も言わず、目の前で包帯を解き始めた。するするする、と解かれていく包帯の布は屋上のドアの窓から入ってきた西日で光っていた。
「これは、俺の腕じゃないんだ」
真っ白い肌に透けて青い静脈が見えた。どういうこと?と問いかけるように、長瀬君の顔を見た。長瀬君の視線は腕に注がれていて、愛おしそうな目をしていて、その横顔が綺麗だと思った。
「小さい頃面倒を見てくれた親戚の姉ちゃんが殺されて、バラバラにされたとき、左腕だけが見つからなかった」
淡々と言う長瀬君の唇の先を見つめながら、急に後ろから差しこんでくる西日が消えて辺りが暗闇に包まれていくのを、私は苦しいほど感じた。彼の吐き出した言葉の意味を考えたくはなかった。私は彼の苦しみを引き受ける強さがまだなかった。
「この左腕はその姉ちゃんに捧げたんだ」
その時、放課後のチャイムが鳴った。長瀬君は立ち上がり、左腕に包帯を巻きつけブレザーを羽織り、階段を降りていった。残された私は泣いただろうか。いや、泣けなかった。立ち上がることもせずに、ただ、長瀬君の白い包帯と腕の残像を追いかけていた。


 

 



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