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内観療法はあやしいのか?

先日、宿泊した東横INNで、聖書や仏教書などと並んで、内観の本を発見した。しかも、東横INNの創業者の編んだものだというので珍しくて買い求めた。非常に読みやすく、様々な方の体験談も載っていて、面白い一冊だった。

コーチングをやっていると、内観に行くコーチも珍しくない。自分も行ってみたいなーと思ったが、一週間もネットや電話から遮断されるというのが現実的に不可能な生活を送っているので、どうしようかと思っている。

内観療法について御存知ない方のために、Wikipediaより。

吉本伊信の内観法(内観療法)
昭和期の実業家・僧侶、吉本伊信が浄土真宗系の信仰集団・諦観庵に伝わっていた自己反省法・「身調べ」から秘密色、苦行色、宗教色を除き、万人向けのものとした修養法。内観法、吉本内観法、あるいは医療に応用されて内観療法ともいわれる。現在、中国にも内観学会が設立され、その他韓国やヨーロッパ等で、森田療法と並ぶ日本製の心理療法として国際的に認められるようになったほか、刑務所や少年院などの矯正教育や、一般の学校教育、企業研修などにも応用されるようになった。母親をはじめ、身近な人に対する自分を、1週間研修所にこもって3つの観点から反省する。自分を客観視することができるようになり、しばしば劇的な人生観の転換を起こす。欧米で Naikan といえば吉本の内観法をさすことが多い。

こちらも。

内観療法(英語:Naikan therapy)とは、本来修養法として開発された吉本伊信の内観法を医療、臨床心理的目的のために応用する心理療法(精神療法)のこと。 1960年代から精神医療現場に導入されるようになった。1978年には日本内観学会が発足している。 また、国際的な評価も得られており、2003年には国際内観療法学会も設立され現在に至っている。 

自分も含めて、親の影響を受けずに育つ人はいない。たとえ親が居なかったとしても、その影響を受けている。内観はそんな親や兄弟などの身近な人の影響を意識して相対化、メタ化するために、ひたすら内省するものというのが私の認識。

今回、初めて、内観に学会があることを知った。2015年から学会誌「内観研究」も出ているらしい。内観が科学的に効果が証明されうるのなら、その延長線でコーチングも証明可能なのではないか、と思ったので、これについては引き続き探究していくことにするとして、今回、気になったのはこちらのブログの記事

こりゃヒドイ…東横イン残酷社内研修
2008/11/17 10:00  日刊ゲンダイ
 建築廃材の不法投棄で硫化水素を発生させ、廃棄物処理法違反(不法投棄)の容疑で島根県警に逮捕された「東横イン」創業者で元社長の西田憲正(62)。06年にホテルの不正改造が発覚した際には「時速60キロのところを67〜68キロで走る程度」との暴言を吐き、大ヒンシュクを買った。問題発覚で経営から退いた後も、支店長会議などで陣頭指揮を執っていたという西田。従業員がなぜ、こんな“暴君”の言いなりになるのか不思議だったが、ヒミツは同社の社員研修にあった。
 体験者が言う。
「実は東横インでは『内観』という社員研修があります。ついたてで囲まれた半畳ほどの場所で8日間、テープで流れる囚人らの回顧録や体験談を聞き、人生などについて考えさせられるのです。私語禁止で、外部との連絡は一切取れない。当然、携帯電話もナシ。まさに刑務所の独房です。暗い顔で泣きじゃくって帰る人もいた。つまり一種の洗脳状態でした」
 この体験者によると、研修は社員だけでなく、下請け会社の社員にも求められたという。(以下略)

まあ、ブログの主の主張がどこまでで、日刊ゲンダイの記事がどこまでかはわからない混濁した文章ではあるが、できるだけ読み解くと、体験談は日刊ゲンダイの取材のようだが、これはどうも記者が言わせて偏見持って書いた記事なんだろうなぁ、と思う。

ちなみに不正改造についてはこちら。そもそも国もホテル側もバリアフリーという言葉をはき違えていることがわかる事件。「障がい者用の部屋を作る」のがバリアフリーではなく、そもそも「バリア(障がい)」を「フリー(無くす)」のがバリアフリー。個人的には重いスーツケースで旅行するときに、いかに日本のバリアフリー意識が古臭いものなのかということを嫌と言うほど実感している。だからといって法律を守らなくても良いということにはならないが、オリンピックでも何も変わらなかった、インクルージョン無しにダイバーシティを謳うこの日本という国の住みにくさはなんとかならないものだろうか?

それはともかく、このブログ主の言っている「カルト的」という言葉が気になった。

こういう記事もあった。

そのお題目の「我を捨てれば金持ちになれる」というやつは京セラ稲盛和夫の「利他の心」と一緒で、体よく労働者の就労意欲を高めて生産効率を上げようという経営者に都合のいい現代版スタハノフ運動のようなもののようだ(まあ、自己啓発っていうのはどれも生産効率向上以外のなにものでもないんだけど)

このブログはフリーランス編集者・ライターの速水健朗さんという方が2006年に書いたもののようだ。

ここまでの話を総合すると、2006年や2008年というのはまだオウムの影響もあり、内観療法が怪しいものだと考える声もあったが、2015年頃には学会誌も発行されるようになり、この論文のように質的研究もおこなわれたりして、海外にも広まっている、という感じだろうか。

内観療法のメインは集中内観と言って、上にもあるように一週間、外の刺激を遮断して自分の記憶を丁寧に呼び起こし、認知のフレームを変えて今の生きにくさを生んでいる引っ掛かりを取ろうというものだけれども、ネット環境で生きている忙しい我々にとっては、なかなかこの時間を確保するのは、まさに会社の研修でもないと難しいところ。

例えばコーチングや独り旅行、執筆などの方法でも、理屈がわかっていればある程度、代替できるのではないか、というのが今の思いつきである。

再び、Wikipediaより。

内観療法の手順
病院で行われる場合と、民間の研修所で行われる場合があり、以下は標準的な研修所で行われている方法である。 母、父、兄弟、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対しての今までの関わりを、
してもらったこと
して返したこと
迷惑をかけたこと
の3つのテーマにそって繰り返し思い出す。

これだけだとよくわからないので、入手した西田の本から引用すると、

 私たちは相手が親でも他人でもそうだが、対人関係ではどうしても人から「してもらえなかったこと」や「迷惑したこと」、「人にしてやったこと」ばかりをいつまでもよく覚えているものだ。
 これは自分にのみ都合の良い自己中心的な視点といえる。しかし、このものの見方こそが不幸を生み出している。
「してもらえなかったこと」をいつまでも根に持っていると、不平不満、悲しみ、恨み、怒りなどの感情が湧いてきて、そこからまた自分は親から十分に愛されなかった、上司や部下に恵まれてこなかった、恋人や配偶者に縁がない、したがって自分は不幸だと結論づけてしまうのではないか。(中略)
 また、「してあげた」と恩着せがましくいつまでも思い、貸しがあるかのように考えていることもある。これも相手にははなはだ迷惑なことかもしれない。(中略)
 「迷惑した」と思っていることでも、じつは自分の責任を相手に転嫁している場合が多い。
 そこでもし、次のようにこれらの視点を180度転換させることができたならば、まったく違った視界が開けてくるのではないだろうか。(中略)
 内観では「自分を調べる」という。(中略)これまではそれと知らずに相手にしてもらうことや理解してもらうことを期待し依存していたことになる。それが逆の見地に立ったわけだ。そうすると、もはや不満や恨みの出てきようがない。あるのはもったいないという感謝の気持ちや、すみませんでしたというお詫びの感情だけだ。
 今度は感謝する心を忘れまいと思うようになる。そしてできるだけ人のためになろうという気が起こる。さらにできるだけ人には迷惑をおかけすまいと心掛けるようになる。

 ちょっと長くなったが、コーチングをしていると、特にリーダーやマネジメントの方で、確かにこういう犠牲者的な視点、リアクティブな認知を持っているが故にコミュニケーションでミスやロスが起こり、うまくマネジメントできていないというケースが多々ある。そういう場合、例えば数回のセッションであれば深く踏み込めなかったりするが、つきあいが長くて信頼関係ができているクライアントであれば、そこのところまで突っ込んでみることもある。結果として自分の中のシャドウのようなものに気付き、問題が解決するということはあるので、内観も同じような効果があるのだなぁ、と思った。

 これを自己啓発というのかどうか、というのはよくわからない。仏教的だなぁ、とは思うけれども。

 ちなみに西田の話はマネジメントやコミュニケーションに行かず、社会変革にいってしまうのが面白い。続いて引用。

まずそのためにも自分のことは自分でやり、余力で人のために尽くすことになる。そうすればまた人から何倍にもなって感謝が返ってくる。かくて相互扶助の社会ができあがる。エネルギーの総和としては等比級数的な増大になる。
 ところが、逆に互いにしのぎを削る競争社会の短所は、エネルギーの奪い合いと消耗で全体のエネルギーは等比級数的に減少していく点だ。それだけではない。孤立すればするほど、時間とともに無秩序は進行し調和は破壊されていく。まさにエントロピーの法則に等しい。

 ここでは「競争社会」と「相互扶助社会」が対比されていて、内観は「競争社会」のロジックで生きている我々を「相互扶助社会」のロジックに導くもの、ということになる。これってSDGsやサステナビリティの考え方に近くて、とてもアリな気がする。ちなみにこの本は2001年に初版発行。2008年に2版発行され、引用したものは、2019年に改訂の第3版となっている。この辺の部分がどの段階で書かれたものかはわからないが、かなり初期から書かれていたように思うので、時代の先を行っていたのかもしれない。

 「相互扶助社会」を謳う経営者が「障がい者」を排除しようという思想を持つのはいまいち考えにくいので、先の不正改造の事件も、障がい者用の施設の部分は違って見えてくるが、考えすぎかもしれない。

 コーチングはあやしい、という前提を持った上での話だけれども、この「競争社会」というタームは、まったく別の文脈で、コーチングを学校教育にインストールするための障壁を調べているところで出てきているので、これについてはまた項を改めて書いてみたい。

 さて、ここまで読んでみて、内観療法について怪しい、と思われただろうか。そうでもないだろうか。自分自身は既にコーチングというあやかしの世界に身を置いているためか、そんなに怪しさを感じなかったが、はて、一般普通の民はどう思うのだろうか?

 現場からは以上です。

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