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母のこと~入院からの一時退院~

母の放射線治療が始まった。

それはそれは相当のしんどさが襲うらしい。
吐けもしない何かを吐き続けている感じで、ダルさとしんどさが常にあるそう。

お見舞いに行くとそのことを少し曇った表情で話してくれた。それでも、私が行くとなんでも話してと言ってうんうんと聞いてくれたり笑ってくれたりした。
それでもたまにゲホッゲホッと何かを吐き出すような咳に私も不安になる。枕には髪の毛が分かるくらい落ちていた。

ビヨ「少し良くなったら何したい?」

母「ほやね、美味しいものでも食べたいね」

そういってふぅー。と息を吐いて笑うのだった。

私はその頃 高校受験を考えなければいけない時期だった。

ちなみにうちは貧乏。
そして、勉強が大嫌いだったし頭も悪かった。
病院のお金もどうなってたか私には分からなかった。でも、お金は無いはず=大変だよな。と何となく思ってた。

私はある日母に「私高校行かんと働こうかな!」と言った。

そしたら母は
「絶対だめや。高校は出て欲しい。」と言った。

わたし的にはすごくいい考えやと思った。
だけど、母はダメだと言う。

ビヨ「なんで?私頭悪いし勉強もしたくない。ほやし、働いたらお金も家に入れれるし…」

母「そんなんだめや。高校は出ておいて。お願いだから。」

そして
母「ごめんね。」

そう言って目をつぶった。

私の意見は基本的には通るのに高校は出て。と強く言うのだ。
その話はちぃーおばちゃんの耳にも入って後日おばちゃんちに呼ばれた。

「けいこさんの夢やから。高校は絶対行きなさい」

周りにも言われ…渋々高校受験へとシフトチェンジした。

それから冬になる頃だったと思う。
母の1週間の一時帰宅が決まった。
持ち運びできる点滴バックみたいなのと、点滴のつなぎ方、それを鎖骨に針を刺す練習をした。

私は注射が大嫌いだからなかなか勇気が出なかった。やりたくないと言うと姉に叱られたり、母に頼むわ…と言われ渋々させるようになった。

母が帰宅してから家がみるみる家になった。
母のいない家の中は正直ぐちゃぐちゃであった。
だけど、土曜になると掃除機の音がする。
母が洗濯や掃除機をかけてくれる。
生活の音がすることが嬉しかった。

食事の用意は私と一緒にする。
 病気になる前までひとつも手伝わなかった私ではあったが、母の横に並ぶのが楽しかった。

母はほとんど食べられないが、私たちのために色々作ってくれた。


学校の三者面談もした。
先生が特別に夕方の誰もいない時間、玄関横の部屋で対応してくれた。

母「うちの子大丈夫でしょうか?高校入れますか?」

先生「学力てきには厳しいところもありますが、日頃の行いがあるので安心しても大丈夫ですよ。」

そんなことを言ってくれた。母のほっとした顔が今でも忘れられない。

そんな高校もですね、

有難いことに生徒会や部活の部長や何かしらの賞などなどいろいろとやっていたおかげで推薦枠を貰えた。

…まぁたぶんだけど、家庭のことも見てくれたのかもしれない。

母の一時退院はほぼ1ヶ月に1回のペースで貰ってくれてた。その退院を目指すためにしんどいことも耐えていたと思う。

そうなると、もう治ったような気がしていた。
わたし的に。
もう病気はなくなったのだと。そうなると、だんだんと有難みというか当たり前になるというか…甘えてしまうようになっていた。

姉との衝突もよく起きる。
些細なことだ。皿の片付けお前がしろ!とか言われて昨日私だったし姉がしたらええとかそんなこと。
そんな喧嘩を頻繁に起こすようになっていた。

姉もとにかく神経ピリピリで学校が忙しいのだった。そんなある日、私のものすごく体調がわるかった。体熱いし咳が出るクラクラした。

あーこりゃ普通の風邪じゃない…インフルかも…。と。ゴホゴホしていると姉に「アンタ!風邪なら部屋にこもれま!うつさんでよ!!!」と言われた。

私は姉の言い方に腹もたったがそれどころじゃないので部屋に水筒を持って籠った。

母は心配そうに「大丈夫?」と部屋に来ようとしたけど、私の風邪がもし母にうったらと思ったら私も「部屋にこんで!うつす!!!!やめて!!!!」と冷たく言い放った。

母は寂しそうに「ごめんね。何もできなくてね」
そう言って階段を降りた。

私はぐるぐるする記憶の中で眠った。

目覚めると水枕があった。

そして、少しだけ楽になった体を起こすと部屋に…母がいた。

ビヨ「え…あ、だめやって。うつすよ」

母「心配やしそばにおりたいんや…」


正直嬉しかった。
根っからの甘えん坊な私だから。

ビヨ「ん…ほんなら、ベットはおかんが寝て。床は私が寝る。」


その条件だけはのんでもらい、ベットにおかん。
床に敷いたせんべい布団にわたし。

電気を消して母に背を向けて寝た。

母「早く良くなりますように。おやすみ」

ビヨ「おかんもな」


次の日にはかなり元気になった。幸いなことに母にうつこともなく。無事日々を過ごした。

そして何度か一時退院。
1週間の日もあれば2日だけや、3日だけ。
そんなこともあったりした。

でも、母がいる日常はうれしかった。

そんなある日。
ちぃーおばちゃんが母を連れて金沢へ遊びに行ってくれた。母は昔から金沢が好きだった。
服を見たり、都会の景色を見るのが好きだった。
でも、その時、体調が急変した。金沢についてすぐだった。救急車で運ばれた。
大学病院にかかり、それからいつもの病院へ戻った。

安静にするようにいろいろと処置が施され、一応大事には至らなかった。

しかし。母は少しづつ病に蝕まれていた。
立っている時間も少しづつ短くなっていた。
寝てる事の方が多くなる日もあった。

そんな中。中学の卒業式。母が姉と座ってくれていた。
周りのみんながジロジロとみていた。
それでも嬉しくてはりきった。

卒業式が終わったら母は病院に戻った。
母に胸についていたカーネーションのエンブレムをあげた。


そして、私はツテを使いソッコーでバイトをした。
早くお金を稼いで母に使いたかった。

初めてのバイトはバッチバチの厳しいとこだったけど、母の為なら頑張れた。

初めての給料は15000円くらいだった。
それを握りしめて病院に自転車でるんるんで向かった。

私は母の欲しいものを買いたかった。

母に何が欲しいか聞いた。
母はなんもいらんよ。といった。
でもあげたいんやと言った。
そしたら、ハンカチが欲しいといった。
なら次の一時退院のときに渡すね!!楽しみにしてて!と伝えた。

母は少しだけ元気のなさそうな顔でニコリと笑った。

私はその足で母の職場へ行って 淡い桃色のハンカチを買った。リボンもつけてラッピングしてもらった。

次の一時退院までかなりの時間がかかった。
体調のばらつきがあったみたい。
実はこの頃、母のこの状況が当たり前になっていて頻繁に病院にも行かなくなっていた。行っても少しだけしんどそうだったし、その顔をみたくなかったのかもしれない。無意識に。
なにより、一時退院であえるのだから。
無理に病院にいかなくてもって思ってたのかもしれない。

高校へ入学し、桜が散った頃。
病院へ呼ばれた。

個室には白い丸椅子が2つ。そして、母の車椅子。

私にとって久しぶりの病院だった。
姉はずっと神妙な面持ちだった。
私はバイトの疲れと学校の疲れと病院の雰囲気でボケェとした。

先生がやってきて 現状を説明した。

そして

「余命3ヶ月です」


は?


は?


は?


は?である。
え、いまもしかして?余命宣言したの?
ドラマとかでみるやつ?
え?本人に?はぁ?である。

わたしは体が一気にかーーっと熱くなり
母を見た。

母はもうしどそうに
「もう…死んでもいいか…?」と聞いてきた。

あれ、おかんってこんなにお肌黄色かったけ
目もくすんでたっけ…

あれ…あれ…と思うと
私は 

首を横にふって

「え、むり。いやや」

そう言って泣いた。

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このお話なんだけど、少し時系列がバラついてる。記憶が濃すぎてバラバラなのよ。
でもノンフィクションなの。
だから
ここの病院は宣告も患者にも伝える方針だった。

母は術後ほとんど食べられなくなった。それでも、少しだけ食べて「美味しい」といった。
その美味しいの一言だけでみんな笑顔になった。

お母さんの好きな たらの湯豆腐やおとし卵入りのイトメンのチャンポンめん。この頃は半分こして食べたの。それで2人で美味しいね!幸せだね!ってよく話したの。

ちゃんとハンカチ渡せたよ。
そのハンカチはね、ずっと大切に持っててくれた。
包装紙もこみでね!お母さんらしいよ。


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