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2/4 『結婚の奴』、『女王陛下のお気に入り』_s

  休日に自宅での楽しい鍋会?のあと、毎日PCのキーがまともに打てなくなるまで働いた1週間だった。トイレに立つ間もなく入ってくる相談につぐ相談のなか、同僚からの無関係な質問に耐えられなくなりついにキレてしまった。しかしまともにフォローする時間もなく、次々寄せられる深刻な家庭事情の相談の合間に、なぜ同僚に怒ってしまったかを謝罪・説明する内容を頭の中で予行練習するが、思い出しているうちになんだかまた腹が立ってきてしまうなど不毛なループを繰り返していた。つらい。でもやるんだよ。なのか。

『結婚の奴』

 面白すぎて途中で「このままではすぐに面白い時間が終わってしまう」ともったいなくなってしまい、別の本を読み、週末に残りを読んだ。もちろんあっというまに読み終わってしまった。Miwaちゃんがわざわざうちに持ってきてくれただけある。能町さんとサムソンさんの話はずいぶん前にネットの記事で読んでたが、詳細ないきさつは知らなかった。経緯のあまりのあっけなさに、笑いつつ、なるほどーと思いつつ。その気持ちは超わかる、と、これは自分の感覚としては正直なところわからないけどそういう考えもあるんだな、を繰り返しつつ、最終的には、やっぱりどういう形態であれ関係性であれ本人たちがいいと思っていればそれでいいし他人がとやかくいうことではないよねというところに達した。身もふたもないが。

 結婚ていう奴の響きは、意外にしぶといもんだなと思った。私自身は、思い出せる限り結婚をしたい、と思ったことが一度もない。これは強がりとかフェミニストだからとかではなく、単純にあまり魅力があるとは思えなかったからで、交際と呼べるような状態に発展して数年たっても、同棲しても、何をどう考えても「結婚したい」とは思えなかった。皆、自分の親や周囲の大人が家庭のことをぼやいたり嘆いたりしているのを聞いて育って、あれをやりたいと本気で思っているんだろうか、と。自分の時間がないとか、喧嘩ばかりとか、そういう話を聞いて「大変そうだな」と思うばかりで、それを乗り越えてその先にある愛というのが、いかほどのものなのか。それに加えて仕事柄、崩壊しかかった家庭に毎日関わることで、余計に思いが強固になってしまった。若いころ、交際相手にいつか結婚できたらいいね、と言われた時はドン引きしてしまい、何を寝ぼけたことを言っているんだろうこの人は、と思ったのを覚えている。恥ずかしながら、私が誰を好きになろうが誰と暮らしたいと思おうが私の勝手であり、それを他人に証明してもらったり、ましてや国に届け出る必要なんかない、と思っていたし、自分自身が生涯一人の人と一緒に居続けられるとは到底思えなかった。子どもが欲しいという思うことは時々あったけど、そのたびに「どうやったら結婚をせずに、なおかつフェアな子育てができるだろうか」ということを考えていた。でもそういう思いを共有していたはずの人もなぜか知らないうちに結婚していたりする。尊敬していると思っていた人が結婚していると知るたびにちょっとがっかりする、というのを今でも繰り返している。ばっかみたい、ばっかじゃねえの、と。

 しかし恋愛となるとまた別と思っている。本の中で能町さんは恋愛する人がわからないという旨のことを書いているが、残念ながら?これに関しては私はわからないということがわからなかった。思うに自分の中では恋愛→結婚という流れが完全に断絶していて、恋愛の最終的な形態が結婚である、という考えがまるっきしないのだと思う。恋愛は恋愛それ自体で完結しているもので、はっきりと最初の3か月がピーク、1年までは余韻、残りは残骸と事故処理であると思っている。いわば祭り、フェスティバルなので、生活と地続きではまったくない。たしかに本の中で書いてある「相手の思う女子像を演じてしまう気持ち悪さ」というのはあるし、過去の恋人との会話を友人には絶対に見せられない、恥ずかしすぎて想像するだけで顔から火が出る、消えてなくなりたくなるが、私はどういうわけか瞬時に客観的な想像を働かせるだけの理性がないらしく、没入しているときは全能の神状態なのだ。先日、最初に一緒に暮らした異性から唐突に連絡があったときに「恋愛を繰り返す女性の気持ちがまったく理解できない」と言っていて、恋愛は星マリオ状態なのだ、と解説した(それと「自分の価値観や考え方が大きく影響されて時には変わっていくダイナミックさ」についても説明した)。無敵な状態。自分が誰かにとって期待値とイコールである、という状態は普通に生活してて経験できない。誰かの期待から、自分というのは常に足りなかったり余計だったりする、ともすれば視界にさえ入っていなかったりする中で、誰かに好かれるというのは自分がパーフェクトであると錯覚できる唯一の手段である。もちろんそれは仮想の女性像なので、やがて相手も「おや?なんかおかしいぞ?」と気が付きあえなく崩壊するわけだけど、まあそれはそれでいいと長らく思ってきた。根底にどうせ素の自分を好きになるわけがないという考えがあるので、そんなに傷つきもしない。というかもちろんダメージはあるが、それは「やっぱり素の自分のことは好きではなかったんだな、そうだと思ってたよ」という確信であって、自分の全身全霊、オール・オブ・ミーが否定された!という気持ちではない。いろいろあったけど楽しい時間をありがとう、という気持ちで終わる。それによってさらに仮想の自分こそが好かれるのだ、という思いが強くなることで、次の恋愛に活かされる。ここまで書いて発想が少し病的なのかもしれないと思い始めているが、むしろ私には本来の自分の姿を好いてもらえると思って恋愛→本来の自分の姿の状態のまま結婚、というのがまったくよくわからない。そういう運命とやらのめぐり合わせとやらがほかの人たちにはあるんだろうか。

 しかし若いころはこういう思考でもそれなりに需要があったとしても40も過ぎると相手も経験を重ねているので、仮の姿を演じているだけでは恋愛に結びつかなくなる。あなた、手品をやってるつもりでしょうけど手元丸見えですよ、と。それにはっきりと「面倒くさい」という気持ちが加わる。なんだこのやりとり、面倒くせえな、と思ってしまう。好きとか嫌いとか平気で言ったり書いたりする自分や相手を気持ちわりいなと思ったり。本当に気楽に付き合える人としか付き合わなくなる。友人に見られたら、という想像を働かせるだけの理性も備わってくる。となるとこの先は星マリオ状態になることもなくのっぺりとした日常を淡々と過ごすだけなのか。こののっぺりとした日常にほんのりと合うだけの適度な外部刺激、なんかないものだろうか。それは気の置けない他者との日常じゃないか。えっ、それってもしかして、けっ・・・。と思って、結婚の奴、意外としぶといな、と。

 そう考えると、能町さんとサムソンさんの暮らしは、理想的なように思える。寝室が別、最高。起きる時間が別、快適。他の人と交際できる、素敵。旅行は一緒に行くけど最終的には別行動、理想!うらやましい。けどやっぱり、私自身としては、それは別に同居でいいなと思う。でもきっと人にはいろんな結婚に対する思い入れや過程があるので、外側からみてやるべきとかやらないべきとかいうもんでもないなあ。私もむやみやたらに結婚している人を心の中で非難したり疑問を投げかけたりするのもやめておこうと思った(今までけっこうな人を責めたと思う。反省)。結婚、という言葉そのもののなかにファンタジーがあるんだろう。そういえば詩人の山之口獏さんも結婚にすごく執着して結婚の詩を書いていたな。

 本の中で、雨宮まみさんのことを書いてある部分はちょっと読むのがしんどいくらいだった。人を好きになる、にはいろいろ種類とグラデーションがある。世の中的には恋愛とか友情とか、ざっくりした分類しかないけど、尊敬とか憧れとか、親しみとか慣れとか、いろんな感情が好意なわけで。きっと雨宮さんと著者との関係性は一般的な恋愛感情とかではないんだろうけど、強い思い入れのある何かであって、そういう気持ちをちゃんと世間的な型におさめないまま、そのままの同士で向き合えた関係性、そういう名づけられない何かを大切にしてきた間柄っていうのは唯一無二だったんだろうなと推察した。そういう関係性のほうがまやかしの恋愛関係なんかよりよほど羨ましい、と思った。

 もっとさらっとした感想を書こうとしたのにこれまで以上に筆圧(キーボード圧)が強くなってしまった。

『女王陛下のお気に入り』
こちらもMiwaちゃんのおすすめで観た。かなり面白かった。感想書く余力がなくなってしまった。新作がやっている?ようなので早くみたい。

 週末はほかにもいくつか本を手に取りつつ、相変わらずヨガとトレーニング。疲れで毎日スニッカーズを食べてたらあっという間に体脂肪率が上がっていて驚愕した。以前も書いたけどヨガは自分が自分の中に納まる感じがあって。頻度を上げるべきか、お財布事情と相談している。

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