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「タル・ベーラ 伝説前夜」公開記念トークショー

タル・ベーラが描いてきた“貧しさ”を直視する独特なカメラワーク
シリアスな一方ユーモラスを持ち合わせたタル・ベーラ作品の魅力を解説

0213佐々木敦さん

2月13日(日)『ダムネーション/天罰』上映後、シアター・イメージフォーラムにて、音楽レーベルHEADZ主宰者であり、映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師を務める佐々木敦さん(思考家・作家)をゲストにトークショーを行いました。

タル・ベーラという作家が問題にしていたのは、
シンプルにこの世界、地球、人間の“貧しさ”

今回この特集上映によって、『サタンタンゴ』以前にどういう作品を撮っていたのかが明らかになったわけですけど、特に『ファミリー・ネスト』からみていくとかなり印象が変わりますよね。非常に瑞々しい、荒々しいといっていいほどのカメラワークで当時のハンガリーの若い夫婦の姿が描かれており、結構びっくりしますよね。しかも『ダムネーション/天罰』までに10年ほどしか経っていないんですよね。『サタンタンゴ』をご覧になった方は、『ダムネーション/天罰』が『サタンタンゴ』の前段階であることはお分かりになると思います。実際映画のなかで前半、謎の女性が旧約聖書の引用を雨が降る中喋りますが、あのシーンはほとんど『サタンタンゴ』の予告編といっていいほどテーマを話していると、僕が最初に見た時に思いました。
そして、僕が今回『ファミリー・ネスト』から見直してみて、タル・ベーラという映画作家が一体何を問題にしていたのか。『ファミリー・ネスト』からこの『ダムネーション/天罰』、『サタンタンゴ』を経て『ニーチェの馬』へとたどり着く、完結してしまった彼のフィルモグラフィーを貫通しているテーマは、僕が思うに“貧しさ”だと思います。この“貧しさ”という言葉は、主人公や登場人物が置かれている状況や環境の経済的な貧しさ、そしてそれを取り巻くハンガリー社会・国家の貧しさ、それをさらに超えてこの世界、地球、あるいは人間の貧しさというものがずっと描かれていると思います。

ファミリー・ネストsub1

カメラや映像が持っているある種の美しさ、崇高さの
ちょうど転換点にある『ダムネーション/天罰』

ダムネーション/天罰sub2

『ダムネーション/天罰』が製作された1988年は(ハンガリーで)民主化に向けたプロセスが東欧や旧ソ連ではほとんど進行している状況だったと思いますが、そういう背景は一切感じられない。冒頭からわかる通り都市ではなく、片田舎の炭鉱街を舞台にしているんですね。だからもっと昔の映画のような印象を受けます。作品ができあがる社会的背景として1988年という時代は重要なんですが、そのことと関係して非常に強いスタイルをもっているんです。特にカメラが、それまでの作品とは大きく違ってるんですね。この映画って長回しがすごく多いだけでなく、固定のショットがすごく少ない。ほとんどのカット・ショットが最初動いてなくてもだんだん動いていったり、あるいは動いていって止まったりするんですね。それ以前のタル・ベーラの作品からはカメラがすごく動く印象があるんですが、どちらかというと人物がすごく激しく動いたりするので、それを撮るために手持ちカメラを使用してドキュメント的に撮っている。一方この『ダムネーション/天罰』は全然違うんですよね。極めて様式化された撮り方になっていて、人物はほとんど動いてないけれどカメラだけがゆっくり動いていく。もっともわかりやすい例は、後半たくさんの人がこちらを見ていてカメラが横移動していく。あれからレストランのみんながダンスするシーン。カメラの動きを見せていくように思える、非常に独特なカメラワークなんですね。
後半ダンスがすごく盛り上がって、輪になって華麗な状況が描かれている。だけどそのあと、めちゃくちゃ汚れた店が残っている。楽しい、愉快な幸福な場面では全くないですよね。むしろこれくらいしか楽しみがない人たちがちょっとヤケになっている感じで。そのシーンの最初と最後には、明らかに『雨に唄えば』(52)のパロディのように雨の中踊るシーンがありますが、全く違う風情を醸し出しているんですね。だから、すごく貧しい現実、貧しい人間の生態、そして愛の貧しさを描いていると思うんです。そういったものを直視して、そもそもテーマとしてこれまでタル・ベーラはずっと描いてきたと思いますが、そういう形でカメラの動きも含めて、貧しさをどう撮るかをやってきた。この『ダムネーション/天罰』で完成されかかっていたカメラワークが、『サタンタンゴ』では完成し、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』『倫敦から来た男』など段々洗練を極めていく。そして『ニーチェの馬』では全てが絵のようになっていく。
ある意味『ダムネーション/天罰』は、カメラや映像が持っているある種の美しさ、崇高さをちょうど転換点にあると思います。それが段々、ひたすら美しくなっていくんですね。それが『ニーチェの馬』で完成され、ひとりのアーティストとして極めて完成度の高い生き様だと思います。

ダムネーション/天罰sub1

シリアスな一方、ユーモラスさも持ち合わせた独特な形で共存しているのが『ダムネーション/天罰』『サタンタンゴ』の時期の
タル・ベーラ作品の見どころ

『サタンタンゴ』main

どうしても崇高な、荘厳で深淵な世界を描いているようにみえるタル・ベーラ作品ですが、シリアスな一方で可笑しい、ユーモラスなんです。この『ダムネーション/天罰』も女性が現れ旧約聖書を雨の中暗唱するシーンや、愛人の女性と主人公が喧嘩してカメラがずっと左に移動し陰になって人物が見えないなか、とんでもないガシャンと物が壊れる音がしたり…。身も蓋もない感じっていうのは、笑わそうとしているのかな?という気持ちになったりするんですよね。
愛の不能さ、狂気に近い愛、あるいはそれを超える生存や実存のもつ真摯さのようなものを捉えつつ、非情な、文字通りの意味で貧しい人間性もこの作品には濃厚に出ていて、『サタンタンゴ』では特に前半、なんか笑える、理屈の正論を言っているような、すごく真面目に受けとることもできるけど、もう一方で「ほんとに言ってるの?」みたいな気持ちになるその二面性が、『サタンタンゴ』にもあらわれていて、この『ダムネーション/天罰』は『サタンタンゴ』につながっていると思います。ある種倒錯的なユーモア、なんか可笑しい。そのおかしさは世界の可笑しさがもっている、あるいは人間のもつおかしみ。それがシリアスな方向にもユーモラスな方向にも完全に振り切らず、独特な形で共存しているのが、この時期までのタル・ベーラ作品の見どころなんじゃないかと、僕は改めて思いました。で、このあとだんだんシリアス度が増していくんですね。『ニーチェの馬』の場合はあれを見て笑う、可笑しいという人はよっぽどいないと思うんですよね。あれはペシミズム(悲観主義)の極限のような映画だと思うので、そんなに長くないフィルモグラフィーのなかで、そこにたどり着いたタル・ベーラという映画作家は、非常に稀有な存在だと改めて思いました。

『ニーチェの馬』main

特集上映「タル・ベーラ 伝説前夜」はシアター・イメージフォーラムにて絶賛開催中!
bitters.co.jp/tarrbera/


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