丑三
【2016.5.30 人のキャラを借りて書いた】
幼子とはなんとも可愛いものだ。
「恐ろしい夢を見た」と枕片手に目を擦り、添い寝をしてくれと愚図る姿のいじらしさたるや。
下のきょうだい達が小さい頃は、そんな風に部屋へやってきては兄である自分が彼らの寝息を聞くまで丸い腹や背中をゆっくりと叩いてやった。
そんな思い出が今となって蘇る。
「蜘蛛兄さん、添い寝してくれませんか」
随分と成長した弟を目の前にして。
『丑三』
三男・鼠切丸は決して男兄弟に執着を持つような性格ではない。むしろきょうだい達への態度はそれなりに慎ましいもので、年上の家族への礼儀も欠かさなかった。
だからこそ困惑を禁じ得ないのだ。
目の前の彼は、よく手入れされた枕を胸に抱え、バツの悪そうな顔で襖から半分此方を覗き込んでいる。
「添い寝をしてくれないか」という要求付きで。
「鼠切丸、なにかあったのか」
「いえその、大したことじゃ…」
鼠切丸は言葉を濁す。空いた手で頬を掻きながらも次に言葉を紡ぐ様子はなさそうで、自分なりに推測をしてみた。
「ふむ、巨大な御器噛でも現れたか?」
「兄さん…馬鹿にしないでください」
ムッとした様子で返す弟を内心白けた目で見つめたい気分に駆られた。添い寝を頼む時点で馬鹿にされないとは思わないのだろうか。
「…」
「……」
なんだというのだ?そう考えて思考に浸る。彼もそれ以上言う気はないようで、暫くの刻を沈黙が支配した。
虫も眠り、風はなく。
月明かりだけが照らす中、丑三つ時に無言で向かい合う兄弟は、端から見ればあまりにも奇妙な光景であった。
そう長くはないはずだったが、無音は彼にとってこたえたらしい。痺れを切らすように鼠切丸が口を開く。
「みんなには言わないでくださいよ」
そうしてぺたり、素足で畳を歩く独特な音を立てながら静かに此方へ歩み寄って膝を折り、内緒話でもするかのように声をひそめた。思わず自分から耳を近づける。
「こわい夢を見たんです」
◆◆◆
「巨大な細蟹が、みんなを喰らってしまったんです。狛切も、鬼切もぼくは、守れなくて。雛切ねえさんも、蜘蛛にいさんも村正にいさんも、みんないなくなってしまって。ぼくだけが残って、それで、それで、」
濡れた大きな目を真っ赤に腫らし、しゃくり上げながら必死に言葉を紡ぐ幼子を強く抱き締め、その柔らかな髪を何度も撫でた。
自分の骨張った手には、母親のような白さや柔らかさは無く、それどころか酷くかけ離れていることは百も承知で、だから泣きじゃくる弟をただただ撫で続けるしか思い付かなかった。
だがそれでも、大きな手が不器用にゆっくりと小さな頭を撫でている内に、幼い鼠切丸の啜り泣きが止んで行くのが分かり安堵する。
「もう化物は居らぬ、床へお戻り」
「嫌です!一緒にいて下さい、一緒に…」
「分かった、分かった」
撫でる手を止め、鼠切丸を連れて彼の部屋まで行こうとすれば、悲痛な声を上げて袈裟にひしと掴まり、その声に再び涙が含まれ始めているのを感じたので、一度は止めた手を慌てて動かす。
(どうしたものか)
初めて鼠切丸が飛び込んできたのは日付の変わる半刻ほど前で。
行灯が照らす中、部屋で写経をしている最中での出来事だった。
宥めた弟を座らせると、仕方なしに道具を片付け自分も寝る支度を始める。村正も雛切丸も起きているだろうに、なぜ見た目の恐ろしい自分なのだろうか。
「よいか、この部屋は拙僧の布団しかないのだ。…だが全部は重いな。枕だけ持っておいで」
「………」
鼠切丸は膝を曲げて縮こまりながらこくりと頷くと、立ち上がって襖へ向かう。
自分の手をしっかりと握りながら。
「拙僧も行くのか?」
「こわいのです」
心底困ったような顔で見上げられ、されるがまま彼の部屋へ向かった。
月明かりの差さない廊下で、鼠切丸は怯えるように自分にしがみつきながら歩を進めた。暗闇の先には、きょうだい達を喰らい尽くした化物が潜んでいるのかもしれない。
鼠切丸が段々と震えだしたのを見て、一度歩くのを止め彼に向かい合ってしゃがみこんだ。するとすぐさま自分の首に手を伸ばし、小さな腕を力いっぱい巻き付けてくる。肩に埋められた表情は見えないが、部屋を出た時からずっとそうしたかったに違いない。
「鼠切丸よ、よく聞きなさい」
背中に手を回してそっとさすりながら静かに語りかければ、彼は自分の肩に額を擦り付けるように頷く。
「お前が見た夢はね、続きがあったのだよ。拙僧が腹の中から化物を斬り捨て、皆を助け出して家に帰るのだ。…よいか、拙僧はそんなものに負けたりはせぬ。可愛いお前を残して逝くものか」
鼠切丸の肩に手を置き、そっと引き離してみれば、彼の眼にあった先ほどまでの怯えは和らいでいた。
「蜘蛛切丸。それがお前の兄の名であろう?」
「…わかりました」
「だからもう大丈夫だ。部屋に…」
「蜘蛛にいさんが共にいれば安心なのですね」
「なに」
「早く枕を取りに行きましょう」
「………」
それからというもの、恐ろしい夢のレパートリーが増えるたびに、今度はきちんと枕を持って部屋へやってきたものだ。
時折やってきた狛切丸や鬼切丸のことは黙っておくとしよう。
◆◆◆
「…鼠切丸よ」
「はい、なんですか蜘蛛兄さん」
「巨大な細蟹の夢でなかろうな?」
「……………………………」
図星らしい。
幼い頃と何も変わらぬどころか言い聞かせたことも忘れているようで。
「…あの」
「いや構わぬ。だが布団はこれしかないぞ」
「失礼します」
気まずそうに口を開く弟を遮り、許可を言い渡して端にずれると、颯爽と枕を置いて空いた隙間に身体を捩じ込んできた。
分かってはいたが狭い。なんとも暑苦しい。大の男と青年が一つの布団で寝るという光景もなかなか見るに耐えない。
背中合わせでお互い黙り込む。
寝ようとは思っていたがすっかり目が冴えてしまっていた。
「…昔のことを思い出していたよ。お前が幼子で、初めてこの部屋に転がり込んで来た時のことだ」
「…朧気だけど絶妙に記憶に残っているからやめてもらえませんか…」
「ははは、すまぬな。だが袈裟にしがみついて泣くお前は可愛らしかったぞ」
「ちょっと」
「分かった分かった」
再び沈黙が訪れる。だが、鼠切丸の呼吸が寝息のそれに変わることはなく。
次に口を開いたのは鼠切丸からだった。
「…その時見た夢だって覚えてるんですよ。細蟹が皆を喰らってしまう夢でした」
そこまで覚えているなら自分が宥めたことも知っているのではないか。と思ったが、それは当たっていたようで。
「覚えていますか?蜘蛛兄さんが慰めてくれたんです。そんな化物には負けないって」
ではなぜ今になってそんな夢が恐ろしくなったのだ。問おうと口を開いたが、その前にその答えはやってきた。
「今日僕が夢で見たのは恐ろしい細蟹ではありません」
身じろぎする気配に、鼠切丸が身体を反転させたのだとわかった。首を振り向かせて彼を見ると、横になったまま真っ直ぐに自分を見つめていた。
「細蟹を斬り刻み狂喜する兄さんですよ」
何年も前に兄が教えてくれたその夢の続きを、今日、確かに見た。
兄の言った通り、きょうだい達を喰らった細蟹の腹に一線の切れ込みが入ったと思えば、体液を噴き出しながらその体躯が真っ二つになるところを、あの日の幼い自身が見つめていたという。
だけどそこらからは何もかもが違っていて。腹の中にいたのは変わり果てたきょうだいの姿だったというのだ。
その真中に立ち、笑みを浮かべる兄を見て酷く恐怖し、目が覚めたという。
「目が覚めた時に思いました。"蜘蛛兄さんが何処かへ行ってしまう"って。だからこの部屋に来ました。…あの日の僕がそう叫んだのかもしれません。
そうしたら、そこに居たのはいつもの蜘蛛兄さんで…安心しちゃって…でも、なんででしょうね、今晩だけこうしていたくなってしまって」
ぼそりぼそり。消え入るように呟く言葉も、静寂に包まれた空間の中ではよく響いた。
「すみません。いい歳して」
「おやすみなさい」と再び背を向けようとする鼠切丸に向かって身体を捻じると、癖のある髪に自然と手が伸びた。
「わっ……」
あの日よりも更に無骨になった掌で、弟の頭を撫でる。幼子の柔らかさには敵わないが、今の彼の髪も昔の面影の確かに残していた。
驚いて最初は顔を上げていた鼠切丸も、次第に枕に頬を預けてうつらうつらと微睡み始める。頭を撫でるのを止め、背中を暫くゆっくりと叩いてやれば、鼠切丸はすっかり寝息を立て始めた。
「おやすみ、鼠切丸」
自分の狂気に弟は気付いている。
願わくば、どうか彼に幸せな夢を。