過去作①

「話をしようじゃないか」

ぐずる子供に語りかけるような口調でその人は言う。私が声のする方を一瞥して返事をしないでいると、それを肯定の意と捉えた彼は、やがて歌うように言葉を紡ぎだした。

「むかーしむかし、そのまたむかし、そのまたむかしのおおむかし…」
「…またそのお話ですか?」

口を開けば、彼はたいそう嬉しそうな表情を浮かべるのだ。

「今日は違うよ。小さなドラゴンに関する豆知識でも、臙脂色のスプーンの物語でもないさ」

そう言って小さく手招きする男の元へ歩いて、弧をえがく口元に耳を寄せてやる。霧のような、真夏の夜のような声で彼は囁いた。

「ある女の子の話だ」

昔、昔。そのまた昔。そのまた昔の大昔。
どこかのある街に、美しい少女がいた。
けれども少女は、恵まれた環境に生まれなかった。
少女の母親は娘の美しさに嫉妬して、決して少女を愛さなかったし、酒に溺れた少女の父親は、彼女を毎晩のように殴ったのだ。

それでも少女は幸せだった。恋をしていたからだ。
少女が恋する露天商の青年は、働き者で笑顔が素敵な男だった。太陽が出ているあいだじゅう働かされている少女も、彼を見ている時は幸せだった。

「…でもね、少女と青年は結ばれなかったんだ」
「青年に恋人でもいたんですか?」
「焦らないで。続きはまた明日聞かせようじゃないか」

おやすみ、と手を振る彼を後にして部屋を出る。
彼が語る物語はいつもいつも、冒頭から始まりここで終わってしまう。いつになったら少女の末路を聞かせてくれるのだろうか。

小さなドラゴンの豆知識も、臙脂色のスプーンの物語も、未だかつて聞いたことなんてない。