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「アウト」の基準を行政レベルでルール発動すること

 このブログの内容を最初にワンフレーズでまとめるなら、「大規模集会の行動制限については、少なくとも今の日本の土壌においては行政レベルで理不尽な内容でもいいから明確な『これはアウトです』という基準をルールベースで発出するべき」というものです。以下、細かく考察します。
 
 新型コロナウィルス感染の蔓延は間違いなく深刻な社会の懸念事項です。その中で、感染症の専門家は称賛に値する努力をしていますし、一部の行政の方々もとてつもない努力をされていると思います。そして、2月下旬以降の重要アジェンダの一つとして、「多くの人が濃密な接触をする環境の総数を可能な限り小さくする」というものがあると理解しています。2月20日の段階で、厚生労働省は「大規模イベントの実施」に関して外的な基準を設けず、当事者がそれぞれ考えたうえで「一律の自粛要請はせず、あくまで主催者の判断とした上で、イベントを開く場合は感染拡大の防止策を講じるよう要請」しました。「アウト」の基準はそれぞれ個々で考えるべきだというメッセージです。フィンランドであればそれでいいと思います。また、特段の有事が起こっていない状況であればその方が好ましい社会だと思います。しかし、今は「この基準以上の集会環境を作ることはアウトなので今すぐ環境回避あるいは改善の方策を」という具体的な行政メッセージをすることを望むと主張します。


<“アウト”基準を明示することに関する懸念事項>

 行政が「アウト」の基準を明示することを躊躇するのは当然だとは思います。「アウト」の基準を行政レベルで作り、それを発令することによるいくつもの懸念事項があるからです。まずは懸念事項から整理します。

 まず、大規模イベントを中止することによる経済的不利益は甚大なものがあります。もちろんその中でもとんでもない不利益を得るのはイベント会社やイベント主催者の経済的不利益です。東京ドームで行われるプロ野球には毎日5万人の人が集まります。チケット一枚が2500円だったとして、東京ドームの巨人戦が10日間中止されたら12億5千万円が吹っ飛びます。これらと似たようなイベントが全国で毎日開催されることを考えると、行政によるなんらかの「アウト」基準の発令が社会経済に与える不利益はとてつもないものになるでしょう。これらの不利益に行政は責任を持たなければなりません。例えば「東京ドームでの集客1万人以上のイベントはすべて当面開催自粛せよ。もしそれをすれば1イベントについて1000万円の補助を出す」みたいなことがないと、経済システムが破たんしてしまうかもしれません。しかし、それを行政がするとなると、今度は国が破たんします。感染症の蔓延インパクトは、そこに集まる人たちのN数が多ければ多いほど大きくなるわけですから、対象となるイベントがもたらす経済的インパクトはおのずとメガなものになるわけです。

 もう一つの大きな懸念事項は、受け取る側の「アウト」の解釈です。いや。「アウト」そのものはもう「アウト」なのでそんなに心配していないのですが、問題なのは「アウト」の基準を満たさない行動が「セーフ」と考えられることです。そんなバカな話はないのですが。「アウト」の基準が提示されたとき、そこで受け取る側の認識は「アウト」か「アウトでない」かであり、「アウト」か「セーフ」かではないのです。「アウト」の基準を満たさない行動や状況であることが確認されたとき、そこではじめて個々の当事者が「では、いまここでわたし(たち)がやろうとしていることはどのような面でどれほどアウトの要素がありそうか?」という自己アセスメントです。そのような「どこまでアウトっぽいのか?」という自己アセスメントと、自分たちが自分たちや自分たちの周りの人たちの幸せを享受することとの釣り合いについてそれぞれ考えることが「倫理的な視座で考えること」だと私は思っています。

 しかしながら、残念ながらフィンランドの人たちと違って、我々日本列島に住む人々は、「アウトでないこと」と「セーフ」との差について認識することはなかなかハードルが高いことのように思います。ですから、「アウト」の基準が提示された際、「アウト」以外の行動や環境についてすべて「セーフ」と考えてしまうような行動パターンをとってしまうかもしれません。よく政治家の人たちが「違法ではない」とかいってふんぞり返っているあのやつですね。

 日本列島での生活で息苦しいと感じるのは、物事のすべてを「アウト」と「セーフ」のどちらかに分類しようとする力が社会全体に働いていることです。その社会においてルールが発動されると、ルール上「アウト」にならないもののすべてが「セーフ」になってしまうという懸念が常にあるのです。ルールに従属することで、人が倫理的思考を止めてしまうということですね。


<“アウト”基準を明示しないことに関する懸念事項>

 翻って、「アウト」の基準についてのルールが示されないことによる懸念事項も存在し、それは、「示される」ことによる懸念事項よりも大きいと考えています。
 
 まずは、今の流れでの考察です。私は、この列島で生活する窮屈さとして感じていることが、「アウトとされているふんわりした概念に対して、アウトの基準が設定されていないと、概してアウトの要素がある行動や環境はアウトとしてみなされてしまう」というカルチャーです。明示されたルールがない環境において「何がどれだけどの視点においてアウトなのか?」ということについて、個別の事象で考え続けることはそれほど簡単なことではありません。おそらく、それを日常的に思考するような文化や教育が必要なのかもしれません。「何の、どんなことが、どの視座においてどの程度好ましい一方でどの程度よろしくないのか?」について、成熟した個々の社会構成員が思考し続け、その思考について社会を構成する人々がそれぞれコミュニケーションを取り合うことができることができれば、社会に法律は必要なくなるかもしれません。そのようなことに限界があるからこそ社会には明示ルールが必要になるのです。例えば、「特別な状況の除いて人は人を殺してはいけない」というルールは、社会の秩序を支えます。と同時に、「アウト」についての明示がされることによって「アウトがアウトである理由」について、社会を構成する人々には意識付けが行われます。

 明示されたルールが存在せず、概念として「なんとなくアウトなこと」と社会に周知されているものに、いわゆる「浮気・不倫」があります。日本で「最低の行いで、社会的に抹殺されるべき」と認識されるような個別の「浮気・不倫」事象は、フランスやイタリアでは「人様のいざこざに何第三者が騒いでるの?そういう集団での責め立てこそが最低」みたいな認識になることが多いそうです。この認識の差には、もちろん文化的な倫理観の差などもあるかもしれませんが、それ以上に私が感じているのは「なんとなく『アウト』と認定されている行動をしたものは基本アウト」という考え方が浸透しやすい土壌が日本にはあるのだろう、ということです。今の状況ですと、大好きな人のために拵えた5-6名の誕生日会を開催することも「けしからん」行為の一つとして批判されそうです。この批判はとても合理的とは思えませんが、一方で「感染症の蔓延を最小限にとどめるために、人々がたくさん密接に集まることは好ましくないことだ」ということを、個々の人々が行動規範にまで落としていくことは結構ハードルの高いことのように私は思います。

 二つ目の懸念は、一つ目のことと大きく関与しますが、一定の明示されたアンカーが提示されずに、ふんわりと「ルールらしきもの」だけがある状況においては、ルール規範ではなく倫理規範が(悪い意味で)幅を利かせることになります。前述したとおり、大きな単会イベントを中止することは、いろいろな人たちに甚大が不利益が出ることですし、そのイベントに出席することで大きな喜びを感じることができるはずだった人たちの喜びのチャンスを奪うことでもあります。それらのことはもちろん「よくないこと」なのです。しかし、その喜びを得るために「感染の蔓延を助長させる」というポテンシャル不利益を軽視することの方が、今のこの国では「よくないこと」「よくない考えを持った奴」のラベリングをされがちです。多様性があまりにも軽視される倫理規範が社会を覆いつくしてしまうことについて、私はとても恐ろしさを感じるのです。そのような一律の倫理観は、特定のグループに対する差別感情を惹起させます。例えば、「野球を観戦に行く人たち」とか「コンサートに行く人たち」「カラオケをする人たち」はすべからく「感染を蔓延させるけしからん人たち」として認識され、取り扱われるかもしれません。


<理不尽なルール設定と、ルール適応外状況での思考を>

 ここはフィンランドではないし、今は明らかに有事です。「国民の皆さんの良心に準拠しながら各々考え、適切な判断をすることで、人間力を養っていきましょう」というメッセージに私は反対します。どのような視座でもよいので、視座を明確にしたうえで、最低限の「アウト」の基準を行政として提示することを強く私は望みます。

 もう何人もの人が指摘していますが、最も影響が大きそうな人の密集環境は卒業式やフェスなどの単会イベントではなく、毎日起きる集会イベントです。その中でも「満員電車に毎日乗る」というイベントは突出してリスキーに見えます。私が行政の責任者の立場だったら、とりあえず電車通勤とオンサイト出勤に対するガイドラインを何らかのインセンティヴとともに発出するかもしれません。経済への打撃は無視できないでしょうから、かなりハードルは低くするかもしれません。だとしても、行政的に明示されるルールが存在することで、「そのルールが存在する根拠」について社会は意識することになると思います。

 同時に、ルールを受け取る側が意識しておくべきことは、「『アウト』の基準を満たしていないのなら、自分のプランは何についてどれだけ『アウト』の要素があるのか?そして、そのようその度合いは、自分やそのイベントに関係する人たちが得る幸せや喜びと同トレードオフできるのか?」ということについてしっかり考えて判断を行うということだと思います。理不尽に適用されるルールと、ルールの適用を受けなかったときに、あえてルールが持つ意味について思考することが大切なことなのかと思います。

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