科学への冒涜者を集団で責め、追い込んでいくことについて
最近、市議や県議などが起こした「けしからん行い」が世の中を騒がせ、そして当事者は槍玉に挙げられた上ギリギリのところまで追い詰められるという状況が相次いでいます。
自分なりに解釈してみると、
1 「けしからん」行動をしたり、意見を発したりしている、そこそこ立派な立場にいる人物を発見
2 この立場の人がこのように「けしからん」ことをすることは「許せない」という感情が発見した人の中に浮かぶ
3 その感情はネット配信され、同じような価値観を持ち、同じように「許せない」と感じていた人の感情に着火する。
4 ネット上で「こいつけしからんぞ。許せない」という感情が爆発的に広まる。ブログなどがある場合は、「お前けしからん。許せない」という直接攻撃も進行
5 その当事者の存在価値の全否定がこの多数による集中攻撃のゴール
という構成を持っているようです。
これだけならば、「こんなこと、みっともないからやめようよ」で済む話かもしれませんが、この「けしからん」事の対象が科学になると、ものごとはなかなか複雑です。
ちょうど数日前、「医療は腐っている。輸血をする血液に放射線を当てるなんてことをしている。」という記事をブログに載せた議員さんがいたということをFBのシェアでしりました。そして、この記事を読んで、確かに怒りの感情を持つ自分がいることを確認しました。
確かに議員さんから「輸血を病院で受けてはいけない」というメッセージが発せられるのは困ったことであありますし、この意見は修正していただきたいのです。ただ、その気持ちからくる反対者側の行動が、どうしても上の1-5の構造を踏襲していってしまうことに、なんともやるせない感覚を持ってしまいます。
おそらくここでは、「人格を否定するまでに人の価値や思考に攻め込み、追い込んでいく」という人もしくはその集団が持つ行動パタンと、「トンデモ科学を影響力の有りそうだけれど科学の素人が発信していくことに対してどう情報受信者は受け取るべきか」という2つの話があって、さらにその2つには大きな親和性があるのだと思うのです。
まず後者について。科学の分野は最も「素人が専門家の世界を分かったふうに口出すと火傷するぞ」という側面が強いと私は思います。私たちスポーツを深く知らない人間が、ブログで「あそこでピッチャー変えるだろ普通」と意見しても野球関係者から「何も知らんくせに!」というようなおしかりの意見は来ませんが、医療について知識が浅い人から「輸血は危険なのでうけちゃダメ」という発信があったら、専門家としては穏やかではありません。一つは、功利的に考えた場合その発言が個人や社会に大きな健康不利益を生みかねないので、早いうちに修正してもらわなければ、という専門家としての責務からくるものだと思います。しかし、むしろその部分よりは、「こいつは科学を冒涜している」という感情のほうが大きいように私は感じています。それほど、科学に裏付けられた価値というのは、特に科学の側に居る人間たちからは崇高で抗いがたいものとして認識されているのではないかと私は常常感じています。
そして、前者。科学に裏付けられた価値を否定するものに対する「けしからん」そして「許せない」という感情は、科学を信頼する人間たちの間で容易に共感を増幅させ、「許せない」という感情を「許さない」という行動に変えていきます。もはや、これは個人特性の問題ではなく、構造的問題のように私は感じています。
ここには、人が根源的に持っているいくつかの特性があるように思えます。
1 人は、人を集団で追い詰めることで、快感を得たり、お互いの共同体意識を高めて満足したりする習性を有している。
2 価値が絶対的であり揺るぎないもの(人はそれを正義と呼ぶ)であればあるほどこの構造は頑強になる
3 一旦この行動様式にはまってしまうと、個人個人が持つ意思を超越してしまう。むしろ匿名性が高ければ高いほど暴力的になっていく。
「ハンナ・アーレント」を見たばかりなので、すこしそちらの考えにかぶれているのかもしれません。私も、ネット社会に生きるもの、かつ科学的思考を信頼しているものとして、少なからずこのようなシステムに加担しています。しかし、「なんでもあり」の姿勢も自分の中で納得がいきません。だれか、いい知恵をいただけると嬉しいです。少なくとも、常に「今何が起きているのか?」「これは何処に向かっているのか?」「この快感、もしくは不快感は一体どこから来るのか?」ということについて常に感受性を持ち続けたいと思っています。
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