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悟りはわたしを救うのか

廓然無聖の意味についてずっと考えている。
わたしが認識している範囲で意味を説明すると
「わだかまりとかとらわれるっていうことが何にもない状態、そもそも高尚な真理とか悟りとかそんなものないんだよ」っていうこと。
だと思っている。
そんなに正しい人生を送っていない割に、正しさに拘って生きてきた。というか、正しく伝えることが何よりも重要であると思っていた。いついかなるときも言葉を尽くし、間違いなく伝えなければならない。この世界にバベルの塔が作られてしまった以上、常に全力で言葉を伝え、言葉を受け止めねばなるまい。わたしはもちろん、あなたも。
割と最近その考えを改めた。
言葉を尽くすも尽さないもあなたの自由だ。あなたがそれをしたくないのならば、わたしはそれを許そう。わたしはガンジーやアンパンマンになりたいのだ。とにかく許したい、受け入れたいと思った。
許すということは自分の衝動を飼いならすことだと感じた。吐き出したいものを飲み込むのは難しい。吐き出すことは気持ちいい。ゲロを吐くことが趣味というか性的嗜好だったこともあった。それはそれとして出そうなものは出すというのが人間として自然な形なのだ。でもゲロを他人に押しつけるのは正しくないだろう。だから飲み込むことにしたのだ。
飲み込んで飲み込んで消化できなかったものは怒りだった。自分だけが飲み込んでいるということに怒り、怒りを飲み込み、怒りは悲しみになってわたしに蓄積した。酒を飲んでなるべく脳を溶かすことに専念した。
結局正しさとは何なのか。正しくなった果てに何があるのか。正しくなってわたしは救われたいのか。楽になりたいのか。許されたいのか。

廓然無聖を想った。漢字検定の勉強中に覚えた四字熟語だった。この言葉の意味を噛み砕くまでに、相当時間がかかった。わたしの理想とする悟りとは違ったからだ。
いつかすべてが晴れて許せるようになるのだと思っていた。高尚で崇高な精神を身につけてすべてを許したいと思っていた。
でも、善も悪も高尚な悟りも俗世も糞も無いらしい。無いというか、全部ただそこにあって、ただそれだけのものなのかもしれない。
正しいも間違いも許すも許さないも怒りも悲しみも、ただあるだけ。意味なんてあってもなくてもどうだっていい。ただあるだけなんだから。

本当にこの言葉の意味を理解することができたとき、わたしにとって大切なものは何もなくなってしまうのかもしれない。いつか、それでもいいと思える日が来て、あなたのこともわたしのことすら忘れてしまうのかもしれない。
それが正しいのか、今はまだわからない。


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