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日記

久しぶりに日記を書きます。去年日記を書こうっておもったのは「書くということをとにかくやっている状態でいたい」と「できるだけ憶えていたい」が理由だったけど、憶えていたいようなできごとってあまりないのだった。
ネトフリで見た韓国ドラマ「怪物」がすごくよかったり(あの「金はあるか」「ない」みたいな乾杯、やりたい……)、DCのドラマ「ピースメイカー」を見るためにU-NEXTにも入って、そしたら「ハルハル」や「海賊になった貴族」もおもしろくてハッピーだったり、プリマジも見れてそれもかなりいいんだ……なんで最初から見てなかったんだろ……とかはあるし、読んでよかった本や漫画もいろいろある。仕事がマジでつらいんだわ……とかもある。金曜にはラーメンを食べるみたいな日々も一瞬あって、映画館で「犬王」を2回見たりもしたけど、いまだに〈自粛〉の、職場への通勤と近所のスーパーでの買い物ばかりがある日々が続いています。ということもメモしておくと、「あのときああだったな」って振り返るのにはちょうどいいかもしれない。38度の熱が出て、でも発熱センターへの電話はつながらず、熱も一晩でさがって他に不調もないので検査のために奔走するのはやめた、でも通勤は10日休んだ。本当は仕事ごと休みになるはずだったのに、3日目にはテレワークが始まってしまった。テレワークが最初からできていたら、まずこの不調には陥らなかったのではとおもって釈然としない。とかもね。
けど忘れたくないのは、書いておきたいとおもったのは、友だちとごはんを食べて、それが誰とだったかどんなことを話したのかとかそういうことなんよな。だからそういうタイミングは〈自粛〉の日々になかなかない。

少しだけある。

春、桜の咲いているときに、遠くに住む友だちが必要な用事のためにトーキョーに来ました。別の友だちと3人で、夜の少しのあいだだけ会った。公園のベンチに間隔をあけて座って、ただおしゃべりをしました。どんな会話をしたのか、まだ忘れてない。忘れたくないのはその部分だとおもうけど、それを書くのは憚られるな。適当なことを書いて思い出すヒントにしようかな。かつてトーキョータワーと呼ばれる、夜には光るでっかいタワーが立っていたというその空白の空間を見つめながら、私たちは見たこともないそのタワーについて話していた。いま見ているみたいに話した。存在しない光について語ったっていう曖昧な思い出が、そこに語られた存在しないけど思い描かれた光が、100年経ってうちらみんないなくなったらどこにも残らんのだなあ(いやそもそも元からないようなものだけど)とおもうと呆然とする。全部嘘だけどな。
めっちゃ広い公園で、待ち合わせ場所を指定せずに待ち合わせて、なかなか出会えなかったところからすごくよかった。「ちゃんと場所を決めとかなきゃいけなかったね」「全然思いつかなかった」「いや、こうなるとおもっていたよ。それを楽しみにしてた」みたいなかんじだった。
解散する前に、ライトアップされている桜に近寄った。ライトアップざくらは人に囲まれていて、近くまでは近寄れず、そんなにライトアップされてないざくらの下で写真を撮りあった。光源が少ないので写真はかなりぶれてた。駅の近くにかわいい鳥の像を見つけたとおもったら、「増税の輪」みたいな像らしくて、「このやろー」という気持ちで写真を撮った。

夏、夏生まれの友だちと、友だちの誕生日の翌日に会った。友だちに会うために私は声優でカラー剤を買って髪を青く染め、変な柄の入っていないシャツを着ていた。友だちはセーラー襟のかわいいシャツを着ていた。わたしは夏の楽しみは変な柄のTシャツを着るところにあるとおもっていて、実際派手なシャツにばかり惹かれるけれど、そのぶん無地の服を選んで着ているひとのことを、かっこいいなとおもっています。友だちとはパフェ行きたいねって話をLINEでしていて、どのパフェやに行くかも決め、その時間に間に合わせるために仕事をはやく抜けるように調整した。でもトーキョーは「また感染者数が増えてきたな」というころで、私たちはパフェを未来に持ち越すことに決めた。雨が降っていたので、広いショッピングモールみたいなところの、ひとのいないベンチのスペースに並んで座って話してた。「久しぶりに会ったのに昨日まで一緒にいたみたいに話せる」とかは意外となくて、まあ毎週LINEで話してたからそんなに話す内容もないっていうのもあるんだけど、ぽつぽつ近況報告をして、大丈夫になってパフェ食べながらもっといろんな話をしたいねって言い合った。誕生日プレゼントとして名前のかわいいコスメを贈った。せっかく近い日に会えるのだから絶対にプレゼントを渡したくて、しかし仕事終わりには買い物の時間はなく、昼休みに買いに行ったのだった。友だちは「名前がかわいいし気になっていたんだ」と驚いて、よろこんでくれた。
そのあと名前のかわいいコスメのことをツイッターに書いたら、別の友だちから名前のかわいいコスメについて連絡があって、うれしかった。

梅雨のころには大学の後輩と江ノ島に行った。仕事を後輩の子ども時代の話をききながら、じぶんの子ども時代のことを思い出して、でもあんまりじぶんの話はしなかった。あとから話してもよかったかもなあとおもった。思い出してた話のひとつ。小学生のまだ学年の低いとき、私のことを好きだという子がいて、いつの間にかその子と私は恋愛感情にもとづいた「おつきあい」をしているのだと周囲に思われていたことがあった。友だちに「どういうかんじなの」ってきかれ、友だちにおもしろがってもらいたくて、「好きっていうか、愛してるってかんじ」と応えたんだ、小学生のときの私は。好きも愛してるも知るかよってかんじなのにね。友だちは「きゃー!」みたいなかんじによろこんでくれたとおもう。そのエピソードの他の部分は全部忘れたのに、そのやりとりだけをずっと憶えている。
江ノ島ではかき氷を食べ、しらすサラダを食べ、ソフトクリームを食べ、ポケモンの写真を撮り、ぬいぐるみの写真を撮り、アジの刺身を食べ、花火をした。ぬいぐるみには百均で買った雨合羽を着せていた。着せるためには紐を蝶結びにしなければならず、私は蝶結びができない。双子のもうひとりに結んでもらっていたのがほどけていたので、後輩に結んでもらった。後輩も私のぬいぐるみを撮っていたけど、あとから見返したら「なんだこれ」てなったりするんじゃないかな。

ひとと会ったのはそれくらい。本当はもうひとつ予定があったけど、それはドタキャンしてしまった。ドタキャンもいましめとして忘れないでおこう……。

特別なイベントとしてでなく、なんでもない日々として友だちとパフェを食べに行った日記がはやく書きたいよ。

他には二次創作の同人誌をつくったりもした。去年の12月に初めてのをつくって、7月にまたつくった。箔押し箔押しフェアを見つけ、2冊ともそれに合わせてつくった本。二次創作はBLカップリング二次創作で、そういう本をつくるとき「そのカプが好きで好きでしょうがない」みたいにつくるのかとおもっていたけど、「わからない、知りたい、考えたい」という気持ちで書いていて興味深い。カップリング二次創作にずどーんとハマったのは卒論を書いていたころだとおもう。「読むのは楽しいし書くのも少しやるけど、本はつくれないだろうなあ」と10年おもってきたので、つくれてうれしいです。その10年を知っている友だちに「よくやった」みたいに言ってもらったのもうれしかったな。
「わからない、知りたい、考えたい」の他に、二次創作がこの日記に代わる「とにかく書くということをやっていたい」活動でもあった。短歌は出てこなくても折句はつくれるのに似て、二次創作も自然にわきでるとかではなく、お題を出してくれるアカウントのお題に合わせて書くというかんじで、でも書いている自分も書いている内容も悪くねえなとおもう。書くときに、自分をつらくさせない書きかたをすることも心がけています。カップリング二次創作はたぶん恋愛関係に向かう話とか恋愛関係の話が主流で、その流れのなかのものを読んで好きになることも多いけど、自分が書くとき、多くのひとにおもしろがってもらうために、自分にとって「ない」ものを「ある」みたいにするとか、その逆をするのを極力やめようと。
そういうわけで書いてる自分も、自分が読むときも大丈夫なようにって、1冊目の同人誌はAroの片方とデミロマンティックの同性愛者のもう片方の恋愛感情に基づく関係には至らない話になった。つくったときは誤字を見つけるのも怖くて読み返せなかったけど、じわじわ「いい本じゃん……」とおもっています。読んでくれたかたが感想を送ってくれたりもして、(わたしは感想を送るという行為がめちゃくちゃ苦手なので、受け取るのもわりと苦手だ。でもわたし自身が「でも感情を揺さぶられた読者がここにいるってことを知らせずにはいられねえよお」ってしぼりだして匿名ツールに投げ込むタイプの人間で、同じようなひとのために感想を入れる箱を設けている。)この真摯さにうまく返せねえよお〜て苦しくなったりしつつ、感想のいくつかから、じぶんのような人間がほかにも生きてて暮らしていて物語を探してるんだなって、そのことに勇気をもらったりもしている。
2冊目は「恋愛が何かの理由になるようなことは怖い」みたいな話で、恋愛感情に基づくハッピーエンドを読みたいひとが手に取ったらすごいしんどいよなとおもってこわごわ出した。自分は「その後のひどい展開のために丁寧になんでもない日常を積み重ねる」みたいな創作の手つきがすごく好きなんだよな……という「じぶんはそれが好きだけど、じぶんがそれを好きだということをうまく飲み込めていない」やつのことも考えていた。
最近読んだ漫画のなかで特別に好きなのが平方イコルスン「スペシャル」です。web連載の最終回が出たときに初めて読んで「なにこれ……好き……」になってキンドルで単行本を買った。丁寧な丁寧な人間関係の積み重ねの話なんだよね。恋愛も出てきてちょっとめんどくせえな……となるけど、それが至上のものみたいには描かれないのでまあオッケー。シャーペンを少し触れただけで粉砕してしまう、車を移動させられる、人間の命を脅かすくらい異常につよい力を持った女の子と、外から来た女の子の交流の話。これがまあ、「丁寧に積み重ねられた日常がじっさい不穏で、ぐちゃぐちゃになる」タイプの話でもあって、いろんなふうにワーッてなった。じぶんのその好みかたには疑問が残るけど、でもやっぱすごく好き。人間関係のなかで、なにかしてもらうこと、それに応えたい・なにか返したいみたいにおもってしまうことの話でもあって、「それなんだよ……」ておもいながら読んだ。
で、この漫画のモノローグと会話で進むかんじも好きで、自分で漫画を書くならこういうタイプの……とおもって、ほかにもじぶんがフィクションを書くとき文字しか浮かんでないから、なにかカメラを動かすようなことが頭のなかでできたらとおもって、とつぜん漫画を書こうとし始めたりもした。同人誌をつくったのはwebオンリーというweb上の同人誌即売会(同人誌を売らなくてもなにか展示するだけでも「サークル参加」できる)にあわせてで、2冊目を出すときには25ページくらいのをかいて(全部フリーハンドのへろへろのではあるけれど)展示できたりして、人生何が起こるかわからんな。おもしろい。
読んだ本で好き……とかじゃないな、止まらなくなって読んだのはスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ「亜鉛の少年たち」。この本に書かれていることが過去あったということ、そしていま起こっていることを照らし合わせて考えずにはいられなくて、苦しい。そして戦争について書かれたノンフィクションを読むときの、ひとを殺すときの気持ちをひとを殺さないまま知りたいみたいな感情におびえてしまう。でも、そういう感情があってしまうことにも目を向けざるを得ない書きかただっていうことが、よかった。訳者の奈倉有里のエッセイ「夕暮れに夜明けの歌を」を読んだのはもうだいぶ前だけど、これもかなり好きな本だった。またロシア語を勉強したいなってずっとおもっていて、まだ実行できてなくて情けないけど、でもいつでも遅くないよねって気持ちでいます。
そして止まらなくなって読んだとかではなく、じっくり1本ずつ読んで、すごく好きだった本、川野芽生「無垢なる花たちのためのユートピア」。どの話も好きだったのだけど、1本目の表題作と、最後の「卒業の終わり」がセットで、「こういうのが読みたかった……」になった。
ネタバレも含む感想になっちゃうな。私は10年前に見た映画「ミネハハ」と「エコール」のことをずっと引きずっている(「ミネハハ」を見てからすぐ同じ原作を持つ話として「エコール」を見るという見方がまずよくなかったなともおもう)。現実について、「こんなのエコールじゃん」みたいに思うことは多い。純粋な子どもたちの楽園を描くようでいて、それが養殖場であること、現実がそういうものであるということの残酷さを見せつけるような作品だとおもってるから。それだけで足りるともおもうけど、でも現実の残酷さを言われて、言われているのに、現実のわたしたちはその残酷を保ち続けているっていうことに納得いかなくなるときがある。それを「ああ怖い」とかただ「美しい」とだけ見てるじぶんたちっていうところまで含めて映画の世界に閉じ込められたような気がする。そこから抜け出そうとするような作品を見るとき、脱出や気づきになるキーが恋愛感情だったりすることにもついていけなさを感じる。
「無垢なる花たちのためのユートピア」も「卒業の終わり」も、私がついていけなくならない言葉や感情で説明された、脱出のための話なんよな。キャラクターが……好き……もあるけど、わたしはあんまりキャラクターの好きさを説明するのが得意じゃないから、なんか、それは、また今度……。「無垢なる〜」を読んで「うーこれの女の子たちの話が……でも女の子たちでやるとまた余計な意味がくっつきすぎるかもしれないし」て思ってたら「卒業の終わり」が来て笑顔になっちゃった。女たちの話で、他人の気持ちに応えようとすること・他人に何か感情を向けることの話で、脱出しなければならない状況のなかで育んだ関係が、そうでない場所だったならどうだったかを求める話、そして、何より、書くことは無力じゃないって話。読んでいったとき、「こういう物語が読みたかった」って随所におもって何度も手がとまった。ツイッターに「こういう百合(わたしにとって、恋愛も含むけど恋愛以外も含む関係でむすばれたふたり以上の、シスに限らない女たちの話)が読みたい」というの繰り返し書いていて、「恋愛じゃなくていいというか、恋愛じゃないほうがいいくらいで、女と女とが人生を共にしたいっておもうとき、ひとが他人に寄り添いたいとおもうとき、その根拠に恋愛が必ずしもなくていいっていうことを言ってほしい」がいちばん言ってることとおもう。それを叶えてくれる作品だったわけです。それでなおかつ、ずっと引きずっていた「残酷さを言われるだけでは苦しい」が、作品のなかで「書くことは世界に抵抗する力です」というのを言われてエーンってなった。たぶん初めて触れるメッセージではないです。でも大丈夫な触れかたをすることってなかなかなかったから、嘘をつかずに読める物語は少ない。100年経ったとき「この物語が世に出されたのに世はまだ……」にならないように、じぶんも危険なひとでいたい。かきたい。でもとりあえず、読めてハッピーハッピーです。