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架空の日記

はい、ツイッターとかのアイコンでバレてるとおもうけど、わたしはひよこです(「アイコンの丸いのはなんですか」ってときどききかれるけど、ひよこなんだよ)。ひよこの社会もいろいろたいへんで、歌うことがほとんど禁止されている。往来で歌ったりすることは。人間の社会にはカラオケってあるでしょ。個室で一匹やみんなで歌うやつ。ああいうのもダメなんだ。合唱コンクールもね。でもわたしたちは歌を知っている。歌が禁止されていない場所、場所っていうか、何、TPO?があるからだ。公共ではない、プライベートな、ほんとうに個人的な関係のなかでは歌っていいとされている。というか、歌がそのまま性愛(ロマンティックな関係もセクシャルな関係もここでは混同されている。ロマンティックな感情はセクシャルな関係を求める・許すみたいに考えられてる)と結びついている。「いつかすてきなつがいを見つけてそのひとの前だけで歌いなさい」って、はっきり誰に言われたわけでもなく、わたしたちは知っている。「みだりに歌うのはよしなさい、他ひよこを不用意に性的な気分にさせかねない、それは不快なことです、はしたないですからね」
でもなんで?
知っているけどわたしたちの多く、たぶんだけど多くは、納得していない。少なくともわたしは。歌うのは楽しい。お風呂場でシャワーを浴びながら適当なメロディにのどをふるわせる。これが「いつか出会うすてきなつがい」のためのもの?「他ひよこをみだらな気分にさせかねない猥褻な」ものなの? ただの声だ。わたしの。
歌をきくのも楽しい。歌をきくこと、他ひよこに歌を求めることは、ときどきそのまま暴力として扱われる。そしてそれがその通りだとわたしも心底おもっている。だけどそうでない歌があることも知っている。わたしの歌の、その声が単にわたしのもので、そのメロディが軽やかでどんな他ひよこへの感情も含まないみたいに、そういう他ひよこの歌があって、わたしはそれを安心してきく。わたしが歌をきくことで他ひよこは害されない。その反射でわたしはわたしの大丈夫さを知るみたいなことだってある。
そのことをなんで知ってるかって、本質的にはたぶん誰だって知っている、けどこうやって身をもって知っているみたいに言えるのは、わたしが歌い場に通っている(残念ながらほんとうは今「通っている」とは言い切れない状況でもある、この話はまたあとで……)からだ。歌い場とはステージでひよこが歌い、客席でひよこたちが歌をきく場所。歌い場はいまもむかしも、その歌を扱う性質から性的な空間とされていて、営業のジャンルとしては「性ふうぞく」です。むかしは一方的な暴力の場所としての面が大きかった時期があるともきく。他ひよこの歌を搾取する場所だったと。ただ、時代って移り変わる。歌い場も変わった。わたしが知ってる歌い場はいまの、わたしに安心をくれる場所になってからの歌い場です。ほんとうにそこに搾取はないのかとか、わたしがもうすっかりその場のファンになっているせいで見て見ぬフリをすることになっている苦しい部分があるのではないかとかも、つねに考え続けていることではある。けどそれは今したい話ではない。これは別の怒りの日記だから。
でも、搾取の解消についてまだまだずっと考え続けないといけないとして、それは別にしても、大丈夫なの、そんな空間は。と疑問におもうひよこもいることとおもう(学校で合唱をし、あらゆる他人の歌をききながら出勤したりするという人間にはわかりにくいかもしれんけど)。そう、「(往来で)歌うな」という声は、道徳的な声だけではない、法的な規制も含んでいる。
往来で、歌うのは、犯罪です!
これは怒りの日記。
ついこのあいだ、わたしの通っていた歌い場のひとつがテキハツにあった。歌い子さんや従業員はタイホされたという。客の前で歌をうたうなんていう過激な、違法な営業があったためだと。ショーの始まる前には歌の録音も流されていたとか……。そんな、公然に歌うだなんてわいせつな行為があの扉の向こうで……? まったく眉をひそめてしまうぜ。
は? 何を言ってるんだ?
この「は?」にはいろんな思いがこもっている。まず、「は? 成鳥のみに限られた同意のある場所での歌がなんで公然なんだ?」ですね。そして「は? なぜ今なんだ?」
なぜ今なんだ。
このテキハツのおこなわれる前日、歌い場も属する営業ジャンル「性ふうぞく」に関して別のニュースがあった。じつは今ひよこの社会には新しいひよこの感染症が流行していて、そのせいでちょっとしためちゃくちゃな状態にある。声を出すとあぶないっていわれてるからみんな木の芽をくわえて生活していて、わたしは全然遊びに行けてなくて、の話は今はいいや。いろんな事業の時間が短縮されて、おうちでゆっくりすごそうねという政策がなされている。時間が短縮されて儲からなくなるけど行政が補償する部分もあるからねって。でもその補償の対象からはずされてしまっている事業もある、それが「性ふうぞく」だった。その理由は「不健全な事業を行政が下支えするなんて多くのひよこたちの理解が得られない」ってなふうに説明された。これもマジで「は?」だよね。そもそも、われわれひよこたちの多くには「性ふうぞく」への差別意識がうっすらある。その事業がひよこの権利を侵害するかたちでおこなわれがちだとか、悪いひよこと通じているんだからとか、そうやってその差別意識を肯定しようとするひよこもいっぱいいる。けどそうやってわざわざ言いたくなること自体が差別意識なのだろうし、そのとおりの問題があるとしても、それは社会全体で解決していくべき課題だってことで、「だから区別(←嫌な言葉だ!)していい」ってことにはならない。ひよこの社会を生きていくためには労働による対価が必要で、その労働のひとつにこの事業がある。この事業が悪だとしても、それはすべての労働が悪だという程度の悪だ(もちろんすべての労働のそれぞれにあるかもしれん暴力たちはそれぞれ裁かれるべきでもある……)。それで、「それは差別じゃん、ちゃんと補償してよ」っていう訴えがおこなわれていて、その受け答えがあり、行政の側は「差別じゃないもん、不健全なものに対する正当な区別だもーん」みたいに言った。のがその前日のニュース。
で、は? なんで今? 「ほら、犯罪行為がおこなわれている。やっぱり支援なんてすべきじゃない」って言ってるみたいじゃん。テキハツは7年ぶりだっていう。これまで、少なくともその7年間、うまいことやってきたじゃないか。なんで今見せしめのようにそれをおこなうんだ。今、ただでさえ感染症の流行で歌い場の多くが苦境に立たされているときに? なんで……。
そのテキハツの理由を近くおこなわれるとされる国際的なひよこの祭典にかこつけて、クリーンな街づくりのためとする説明も見た。けどそれはむしろ、ずっと「クリーンなクソ街づくり」をしたい行政があって、祭典がちょうどいいきっかけだっただけのように見える。見えちゃう。わたしにとってはそう。クリーンな、雄鶏と雌鶏がただしくつがいをつくり、ただしい歌を交わし、雄鶏が稼いだお金をつかって雌鶏が家を守りあたらしいひよこを産んで育てる、それ以外の生き方のない、くそったれの街……。
そんな「健全さ」はこっちからごめんだよ。
あー。そして、ちょっと話が変わるよ。
歌い場は、歌が歌われる場所……ではなくて、ほとんど歌うように語られる場所です。歌は犯罪だからね。ぎりぎり歌じゃないんだ。歌い子さんの興が乗ってちょっと歌っちゃうとかあっても、ちゃんとそのときはマイクが落とされるし、照明も暗くなって、嘴元が見えないようになる……。ということになってる。わたしたち歌い場の客はこころえているから、「歌い場でいい歌がきけた」とかを外では言わない。「歌い場はいいな。歌のよさがわかる気がする」そういうかんじに言う。おまじないみたいに。どこまできくおまじないかわからないけど、でももし「歌がきけた!」って高らかに言い、たまたまポリスヒヨコの耳に入って、「それはタイホしなきゃならんな」っておもわれたら困るじゃんね。まあ、なあなあでやってきていたってことだ。けど、でも、もし公然とすることが許されない歌うたいがおこなわれちゃっているとしてもさ、マジで、客も歌い子も成鳥で、歌に関する知識があって、そのことを了解していて、しっかり扉で区切られていて、そういう場所だよ。ミミズ屋さんでミミズ買うことしらなくて、ミミズを売りつけられる被害に会いましたみたいにならないじゃん。「は? 成鳥のみに限られた同意のある場所での歌がなんで公然なんだ?」ってわけ。
それとさ、そもそもなんで歌自体が犯罪なんだ? わいせつ? この日記の最初にも書いたたけどさ、全然わたしは納得してない。
この「わいせつ?」のハテナを「わいせつじゃなくて芸術だ」って言い表そうとする向きもあって、わたしはそれにも反対します。なぜかって、歌い場の歌はそんな「ぴよかぴーのどちらか」みたいに語れる単純なものじゃない……のもあるけど、「わいせつだ」っていうのも歌うひよこを性的なものとして勝手に見る側のひよこの価値観の話だし、それって結局クソクリーンな街の発想と同じ価値観でしょ? つがいのクソ倫理……。はいクソ喰らえですわ。で、「芸術だ」っていうのもそう、そういうクソ価値観の社会が培ってきた評価の軸で、わたしはそういうことに感動してるわけじゃない、まだ語るための言葉を持てていないけど、少なくともそれらクソ社会の語彙で語りたくはない……。
話を戻そうね。そう、怒りの日記……。この怒りは、クソクリーンな街(の復権なのかも)を目指す行政の考えとか、やりかたへの怒り。あと、これは、じぶんへの怒りかもしれない。最初にテキハツのニュースを読んだとき、「なんでわたしはタイホされてないんだろう」っておもった。いや、知っているんだ。読んだりきいたりしたから。もしテキハツされても、罪を犯したことになるのは歌い場側のひよこたちで、客席はそうじゃないって。でも、「なんでわたしはこうやって呆然としているんだろう。ここで。歌い場にもおらずに」。なんで、ずっと、この微妙なバランスのなかで、つまりお目こぼしをもらいながらのなあなあのなかで歌い場通いを続けて、その状況に対して「権力を刺激しない」を選んで、ここまで来たんだろう……。だってもう少しマシな……感染症とかなくって、とにかく「ほかの劇場に通って応援しよう」ってしやすい状況のうちに何か……。いや、でも、「刺激せずに、だんだんよくなるのを待とう」みたいな気持ちはあったとおもう。わたしだけでなくって。歌い場の扉の奥の状況が時代に合わせてどんどんすばらしいものに変わってきたみたいに、お客ひよこたちも多様になってきていた。そういう多様なお客が「ここはすばらしい場所!」っていろんな場所で広げることで、ひよこたちの意識自体が変わって、法の解釈ももうちょっとマシになるのでは……そういう期待だ。とにかく刺激して最短で破滅しかねないよりかはずっと有意義な作戦……。だって、何かしたところでわたしみたいなちっぽけな1匹のひよこで何か変えられるわけでもない……、何か変えられるとおもうようなことこそ傲慢で……、うん、そうだね。そうかも知れんね。
でも、これからも「ここは適法な、楽しい、健全な場所です! だから残り続けます!」って建前に、にこにこ同意できるだろうか。気づいている。その場所がわたしにとって大切なのは、そう、歌自体が、歌をうたいうるわたしやあなたの嘴がただわたしやあなた自身のもので、芸術でもわいせつでもない……とかんじるための場。だけじゃなくて、クソクリーンな街の「健全さ」にあらがう、不健全な、反抗的な場所であるから、重要なんだって。歌うことを許さないクソクリーンな社会(その社会ではわたしみたいな……端的に言うと雌鶏と雌鶏で生きていきたいひよことかはいないことになっている。だって殖やせないんだから……)にあらがいたい気持ちがあるから歌い場が好きになっていて、なんであらがうことを場所や場所ではたらくひよこだけに任せて、わたしただにこにこしていたんだろうって……。これからもにこにこできる? できないんじゃん? だってあらがいたいってこんなに気づいてる……。
ちがう? わからん……。
どうすればいいんだろう。とりあえずこの日記は、今どういう感情がじぶんに流れてるかメモしておきたかった。とにかく歌い場に通うができたらいいけど、感染症のあるうちはわたしにはむつかしい。それも悔しい。また客席ですばらしい歌をききたいし、それがほんとうに大丈夫になってもほしいし、それは場所ではなく行政が変わることで実現されたい……。そう、また「歌い場は法に触れることはしてません」てなあなあを保つとか、「歌い場は歌をうたうみたいに語る場所です」そのものになるのか、嫌。「歌うことのなにが悪い」がそのまま、何も悪くないんだよ!てなってほしい。そのときはもしかしたら減るしかできない歌い場が復活していくかもしれないし(歌い場って、いまの法のなかではもう増やせないの)、うーん、それは素敵だな。おばあちゃんひよこになったわたしも歌い場をつくったりしてみたい。あーあ、とつぜん全部マシにならないかな。

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っていうのは架空のひよこの日記だけど、人間のわたしも、いま通ってる劇場にぜんぜん行けてなかったり、いろんな悔しさ、わかるね。通っている劇場というのはストリップの劇場たちで、それぞれちゃんと感染対策をして営業しているのだけど、どうしてもわたしは感染のリスクは通勤だけにしときたいってじぶんから娯楽を絶ってしまってる。これって「ほしがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵」をやってるのと同じことなんかな、少しでも大丈夫でいる可能性をあげたいだけなのにな。いろんな悔しさがあります。あーあ、お上の言うことをききたいわけじゃねえんだよ。あと比喩じゃなくすごくカラオケに行きたい。同居の姉とはときどき行っちゃってるんだけど、友だちとも行きたいよ。友だちの前で歌って、「この曲はわたしのなかであのカプのイメソンでね」って間奏のときに早口の説明をしたりしたい。ひとりカラオケでひたすら叫んだりもしたい。叫ばないとやってられないよ。
とにかく生き延びようとおもう。そしてカラオケに行こうね。うん。劇場にも。
じゃあ、またね。