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カステラの源流を求めて岐阜県へ

カステラを食べていて、ふと「この設定には無理があるのではないか」と思った。

唐突ですが、カステラは和菓子だと思いますか?
それとも洋菓子だと思いますか?

おそらくほとんどの人が考えたこともない問題だと思います。

カステラは和菓子です

大事なことなのでもう一度言います。

カステラは和菓子です

わたし自身も事実として知っていました。
デパートなどでもカステラは和菓子の場所にありますし。

しかし多くの和菓子はあんこを代表として米や麦などの穀類、小豆、大豆などの豆類、葛粉などのデンプンを主原料とした植物性のものが多いのが特徴だと思います。

なのにカステラは動物性の鶏卵を使うなど、使用される材料から一般的な和菓子とは違います。そもそも名前がカタカナだし・・

やっぱりカステラを和菓子の設定にしとくのは無理があるのでは?と冒頭の言葉につながります。

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カステラの歴史

そもそも和菓子という言葉が生まれたのはそう昔のことではありません。

鎖国をしていた日本が開国後に急速に西洋化をしますが、明治時代以降に西洋風の菓子が作られ始めた際に洋菓子と区別するために和菓子という言葉が生まれました。

それ以前はただの菓子と呼ばれていました(考えてみれば当たり前の話ですね)

つまり洋菓子という言葉が生まれる以前から日本に存在していた菓子を和菓子と呼び、それ以降西洋から入ってきた菓子を洋菓子と区別するようになったのです。

カステラは室町時代の終わりに長崎に来たポルトガル人より伝わったといわれています。なのでカステラは立派な和菓子という訳です。

ポルトガルの「パオン・デ・ロー」、もしくはスペインの「ビスコチョ」と呼ばれる焼き菓子が起源といわれ、名前はポルトガル語の「ボロ・デ・カステラ(カスティリア地方の菓子」に由来する説が有力になっています。

日本でキリスト教を布教したイエズス会の宣教師たちが布教にカステラを使っていたともいわれ、日本でも普及したと考えられます。江戸時代前期にはすでに天皇や公家といった上流階級の人々のもてなしに用いられていたり、江戸時代後期には庶民にも普及していたカステラ。

しかしその当時のカステラは今のものとは違い、固くてパサパサしていたと伝わっており、現代の私たちが想像するにパンと菓子の中間的な存在だったと考えられます。

そのカステラが現代のように洗練されしっとりとした美味しさになったのは明治時代で水飴とザラメ糖を用いる製法が考案され今のようにしっとりとした食感になったといわれています。明治になってもしばらくはパサパサしたカステラだったと考えられており、北原白秋が明治44年に出版したエッセイにもカステラが登場し、黄色粉がポロポロとこぼれる詩を執筆しており、カステラの粉っぽさに言及しているのは当時はまだ水飴や蜂蜜を使ったしっとりしたカステラが広まっていなかった為と思われます。

わたしが今までカステラと思って食べていたものはカステラではなかった(カステラです)のであれば昔の人々が食べていた明治時代以前のカステラを食べてみたい。

そんな思いで以前から少しずつ調べていました。
ありました、現代日本に。 すごいねインターネットって。

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そして岐阜へ

そこは岐阜県恵那市という岐阜県の県庁所在地である岐阜市からも遠く離れた街

なぜ長崎から遠く離れた岐阜の山奥でカステラの源流が食べられるのか。
その思いつきとも言える好奇心から今回岐阜行きを決めました。

ちょうど所用もあったので前日岐阜市内でサクッと所用をすませ、翌日ゆっくりとカステラ調査をしようと思っていたところに台風が接近していました。

ニュースでは盛んに「明日は電車が止まるかも」と連呼しており、今回は大人しく帰宅した方が良いのではないかと注意喚起を促してくる私の理性。しかし岐阜に来ること自体あまり機会がないのと、さらに恵那市に行くことなんてもう今後ないかもしれないという思いで恵那市行きを強行しました。

しかし遠い…
恵那市遠い…

岐阜県内の移動で片道2時間半って何だよ。岐阜駅から片道2時間半って中々の距離感で、なぜか乗換案内アプリでは岐阜県内での移動のはずなのに一度名古屋駅に向かえと指示されます。
しかしわたしはカステラの原型を食べる為に向かいます。
岐阜駅から名古屋駅、名古屋駅から恵那駅、恵那駅からJRから明智鉄道に乗り換えさらに岩村駅まで移動します。

唯一の変更点は少しでも早く自宅に辿り着くために、現地での滞在時間を最大限短くすること。
電車は約1時間に1本なので、現地滞在を1時間以内に切り上げたいと思います。
地図で確認したところなんとか大丈夫そう。

恵那市のキャラクターはエーナ

途中初めて降り立った恵那駅で時間があったので駅前を歩いてみました。
駅前はよくある地方都市のような佇まいですが、しかしさすが中山道大井宿のあった町です、地方都市の駅前に和菓子店が3店舗もあるなんて歴史を感じられる街です。

時間になったので明智鉄道で岩村駅に向かいます。

だいたい1時間に1本間隔

初上陸の恵那市岩村、駅前からすでに歴史を感じます、いや歴史しか感じません(失礼)早速歩いてお店まで向かいます。

岐阜県恵那市岩村町、人口5000人足らずのこんな山の中の村にカステラが本当にあるのでしょうか。
いや、逆ですね。この田舎の山の中だからこそ歴史の流れから忘れられたように残されているのだと思います。

事前に調べたところでは駅から店舗まで約1Km程度ですので15分程度で到着可能です。往復でも30分ですので購入する時間を含めても十分往復可能です。

十分1時間で往復可能

お店に到着です。
それはそれは歴史を感じる店舗でした。

なんとも歴史を感じる外観です
カステラではなくカステーラ

今から220年ほど前、岩村藩の医師が蘭学を学ぶために長崎に滞在した際、カステラの製法を教わり岩村藩に帰ってからその技術を街の菓子店に伝授したことが始まりとされています。
220年以上前に伝わった製法を大切に守り続けているカステーラは、本場ポルトガルにももう残っていないカステラの原型と言われています。

これが探し求めていたカステーラ
見た目はパウンドケーキのよう

現代の長崎風のカステラと違い水飴を使っていないのでいわゆるしっとりではなくギュッと詰まった生地で感覚的にはパウンドケーキが近いと思います。
封を開けた時から香る卵の味が濃く素朴な味わいです。

材料も、砂糖、鶏卵、小麦粉、はちみつのみのシンプルな構成

わたしの体感的には人形焼が近いと感じました。
2切〜3切は楽に食べられるため、こちらの方が好みだという人も多いと思います。また冷やしたり焼いたりすればまた違った味わいで美味しいので試していただきたいと思います。

このカステーラには膨張剤が使われておりそれにより、よりパウンドケーキに近いのかと感じましたが、膨張剤は昔のカステーラには使ってないし、長崎のカステラにも使っていないので、歴史上のどこで膨張剤を入れるという変化が生まれたのかが興味あります。

どこかの時点でパウンドケーキよりに方針を変えられたのだと思いますが、これだけ情報化社会になって、AIが人間を越す越さないと言われる時代になっても、当時のことは想像でしか知ることのできないことがある事例の一つだと思い、とても興味深いです。

カステラを焼く為にはオーブンが必要ですが、カステラやパンといった西洋の食べ物が日本に伝わった16世紀には、庫内全体を熱してその中で上下からの熱と食品からの水蒸気で蒸し焼きにする調理器具はまだありませんでした。
しかしカステラの存在を知った江戸時代の人々が密閉した容器の中で容器全体に火を通すやり方を編み出した日本人。
日本人のそういう特性を私は愛しています

その当時の製法を守って江戸時代から時を止めている恵那市岩村地区の松浦軒本店。
手順も変えず石臼を利用した材料撹拌をした後、生地を銅製の型に一つづつオーブンに流し込み焼かれています。

遠い昔、江戸時代の人も同じようなカステーラを食べていたと考えるととてもロマンがありますね。

有名人の中では坂本龍馬とカステラのエピソードがあります。
慶応2年(1866年)新婚旅行でお龍と鹿児島県にある霧島山に登った際に持参したことが知られています。
また翌年結成した海援隊の残した雑記帳にカステラの製法がありカステラ作りで活動資金を捻出しようとしたともいわれているくらいその当時にはもう一般的となっていたカステラ。

なぜ岐阜県の山奥にカステラが伝わっているのか

では、なぜ今回訪れている岩村の医師がカステラの製法を教わり故郷である岩村藩に伝えたのでしょうか。

当時、長崎は国内で唯一海外から最新の情報や物品、学問などが海外から入ってくる一大集積地でした。そのため、日本中から医師だけでなく、学者などが集まって来ていました。
その中で彼らはカステラにも触れる機会があったと考えられます。

海外からもたれされた最新の菓子が医師や学者に注目された理由

それは滋養をもたらす食べ物という側面があったと考えられます。

農村では日本が高度経済成長期に入る前の1955年(昭和30年)頃まで「卵を食べるのは病人くらい」といわれ、日常的に卵を食べることはあまりありませんでした。
卵が特別だった農村では疲れをとるのにも生卵を飲むと良い、であるとか病期見舞いに卵を持って行くなど卵には滋養強壮に効果があると考えられていました。

卵と砂糖をふんだんに使って作られるカステラは異国の菓子というだけでなく、滋養強壮に効果がある贅沢な焼き菓子として祝いの席や病気見舞い、あるいは手土産として広く利用されるようになっていったと考えられ、卵に対する人々の固定観念を変えていったのがカステラだったと言えます。

そこに目をつけた医師たちがそれぞれの故郷にカステラを持ち帰った理由だと考えられます。今回訪問している岐阜県恵那市の他にも鹿児島県の甑島(こしきじま)にもカッパ焼きといわれるカステラ風のお菓子が残されています。

ポルトガルやスペインにも残っていない原型カステラ、このカステラの他にもそのようなお菓子がきっとあると思いますので、私はこれからも追い続けていきたいと改めて思うことが出来た良い経験になりました。


しかし後日・・

地元のデパートにて

岐阜県の山奥まで行かなくても買えたんかーい!!!!!

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