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戦争をやめさせてください

声をあげることは、私にとって祈りとなりえます。
自己主張でも個人的な怒りのためでもなく、祈りのために声をあげます。
無力だからこそ祈ります。

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BBCニュースの下記記事より:

イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は8日、イスラエル国民に対して、「長く厳しい戦争」に突入するのだと表明した。

亡命中のハマス指導者イスマイル・ハニヤ氏は同日、ハマスが「偉大な勝利を目前」にしていると述べた。

私は軍事分析家でも知識に詳しい者でもないし、このことについて論じられる賢い頭脳も持っていません。
そのかわり、わが師が教えてくださり、出会わせてくださった、ベルジャーエフからの言葉をもって、人類の戦争への抵抗の姿勢を表明したいと思います。

戦争は人間の存在を根底から揺り動かした。それは長年のあいだ、人間に蓄積されてきた憎悪と嫉妬とを一時に爆発させた。また、それは(そういう言い方が許されるならば)いまだ「客観化」されず、「ま」の状態で人間の心のうちに巣くっている悪の姿をあきらかにしてみせた。そればかりではない、戦争は、われわれの文明がどのようなものか、あますところなく暴露した。戦争は、人間が思いきったら、どこまで悪事がやってのけられるか、その度胸のほどを遠慮なくためした。「なんじのすべてを戦争にささげよ」と命令したのは、戦争である。だから、戦争は、いわばそれ自身コミュニズムであり、ファシズムであった。さらに戦争は「自分の生命を惜しむな。他人の生命も軽んぜよ」と教えた。なぜなら、人間の生命や人格は、歴史の必然性につかえる道具にすぎないからである。 ・・・

歴史にたいする審判はロゴスの叫びである。歴史を裁くためにはロゴスの存在が必要である。歴史を通じて、われわれ人間にあらわされる黙示は、われわれが歴史のうちに神の国・・・を──すなわち意味・・を──実現しようとして、しかもいかに大きな失敗を繰り返しているかを告げている。だから、歴史を認めるものは、同時にまた、革命を認めるものでもある。(*1) 革命を否定し、それを罪悪と考えるものは、歴史が罪の歴史であることを忘れたものである。罪をにくむものは、すべからく神の国を実現しようと努力しなければならない。(*2)

ベルヂャーエフ『現代における人間の運命』(1934)より

傍点、カッコなど原文ママ。
*印は訳者による注釈です。注釈を読んで、師に従い歩んでいる現在の生の探求の道程において重なり合うところを感じましたので、下に追記いたします。

注1: ベルヂャーエフのいう「革命」とは、社会的革新ということばかりでなく、もっと広い意味で、人間の「創造的活動」をもさすのである。

注2: この箇処の論理は少し飛躍しているように思われるから、ベルヂャーエフの考えにそって次のようにおぎなっておく。
(1) 歴史的過程は相つぐ失敗の連続である。
(2) それならば、歴史が生み出すあらゆる結果は、神の国の実現をはばむ否定的なものであるか。
(3) それとも、歴史には、神の国の実現に役立つ積極的な力があるか。換言すれば、人間は、その創造的活動(つまりベルヂャーエフのいう「革命」)によって、神の国に入る希望を持つことができるか。
(4) 上の問にたいする答は、然り、である。すなわち、歴史は神の国の実現に役立ち、人間は創造的活動によって、神の国に入ることを許されるのである。なぜならば、人間の歴史から神の国の建設にたいする積極的な貢献を否定するならば、それは歴史からあらゆる意味をうばい、ひいては、人間が神の似姿であるというキリストの教えを否定することとなるからである。
(5) では、人間の創造的活動が歴史のうちで失敗をくりかえし、「人間の歴史は失敗の歴史」だというのはなぜか。それは、人間が創造的活動の所産をすべて客観化する(すなわち、生活のため、功利的に利用する)からである。しかし、実際の創造力そのものは、客観化の限界をとびこえて、神の国を志向している。たとえば、ギリシャ悲劇、レオナルド・ダ・ヴィンチやレンブラントの絵、べートーヴェンの音楽等々、古今のすぐれた巨匠の創作はわずかずつではあるが、神の国に至る道を築いている。

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