思索の試み:愛と生命との関わり、創造の根
今回の思索の記録も、言葉に表すことと慎重さにおいて難しく感じましたが、ベルジャーエフの言葉によって勇気づけられながら、挑戦することにします。
願わくば彼が云わんとしていることと私が受け取ったことが、全体として正しく繋がっていますように。
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この日は朝の瞑想でイザヤ書の一節が浮かんでいました。
「見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ」(イザヤ書 49.16)
とくに「あなたを彫り刻んだ」と何度も呼びかけられている感じがしていました。
夏以降、大切にしている言葉であるけれど、今までで一番近くに感じられ、一人ひとりに向かって語りかけられるという真実の表れを感じました。
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#0 The Fool の視覚化瞑想訓練より:
「わたしはあなたを生み出すために死んだ」。
キリストとしてのフールは、私を生み出すために死に至られたと。
自分のためというのは、思い上がりとは異なる。私には私の生の中でしか知りえないので。
私を生み出すために死なれた、ということが、信じられた。
大袈裟なことでなく、本当にそうなのだと信じられた。
キリストとしてのフールが言われることだから。
歴史を貫いて 在る 永遠の中におられるから。
そして[生み出す]というのは愛ゆえに、と示されていた。
[生み出す]とは、それほどに愛されているということ。私という生命は、愛されるあまりに生み出された、と示される。
生まれる前から?と(理屈だと)なるけれど、
キリストは、私を非常に愛され、それゆえ現実に、私として生み出してくださったと。
これもまた言葉にすると酷い思い上がりのようなのだが、これは先の「生み出すために死に至られたこと」への理解として繋がる。
それから両手を差し出された。手のひらには十字架の釘の跡があった。
「見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ」と無言のうちに仰っていた。
私の手をとって握られた。左手で私の右手を、右手で私の左手を。それはカードの絵図とは異なるが、結びついている二人の子どもを象徴していると感じた。
愛するがゆえに、一つになりたい。
分かれているということがありえない。愛とは結合することであり、また結合の間に流れているというような、
別々でありながら、ひとつ「のような」ではなく、「ひとつ」である、と定義できる存在になってしまうほどの結合。
このようなこととして示されていた。
#0 The Fool のカードを理解する学びとして、フールという、師が教えてくださる聖神タロットの霊の注がれる愛は「これほどの愛」である。探求の志願者としての不完全さに対し誠実に考慮しながら、最初から最後まで全体を流れる、これほどの愛というものを、私自身がどのように感じ取れたかが重要だと受け取りました。
このことは論証できないものであるけれど、畏れながら、私はこの世界を知っていると言いたい。
私のような者でも触れさせて下さるこの愛が実際にあり、その愛と生命とは神の元から来て、時間を超えて永遠に関わり合っているということを、先人の方々は色んな形で遺してくださっている。
その中でこの時の自分に響くよう教えてくださったのは、高橋先生のお言葉でした。
私はまだ、神は死んで復活するという事実に触れてはいない。
でも、創造の根源は、神の到来と、その死と復活にあると思います。
生命とは生まれるもの。生み出されるということは創造によって起こります。
古い命というのはない。
そしてこの高橋先生が仰っている『生命』は復活によってしか生まれない、復活によって創造される生命ですが、#0の瞑想訓練で示されている[生み出す]先にある私という生命もまた、有縁の関係を結んでくださって生かされている現在の私のことだけではないかもしれません。なぜならそこには時間がなく、そしてこのことを示されているのはタロットの側だからです。極端に言えば、現在の私とは関わりがないからです。
(しかしながら有縁の関係が見出される時点で、それは認識できる現在の私が結ばれているという表現は違う気がします。そうすると、今、認識できないけれどある私という生命も、時間を超えているのかもしれない。
観念の範囲を突破していない思索ゆえの矛盾とぶつかりながら進むという醜態をお見せしております、あしからずご了承ください。)
いずれにせよ、もしも創造するということの根には、いつもこのこと[神の到来と、その死と復活]が土台としてあるのだとしたら、創造によってあらゆる人間には根源的な関係の回復に触れられる可能性があるのではないでしょうか。
タロットの霊的作業では愛と生命との関わりと創造の根とが繋がる世界をこのように垣間見せてくださりますが、その視界(レミニスケートの眼鏡)の精度や広がりに、奥行きが生じていきます。
重要なことは、視界の深まりの中でこのキリストの愛に私自身が捕えられているように感じていること、
さらにこの愛が私の中へ入ってきて何かを起き上がらせようとするような…それは具体的にはこの愛に私を倣おうとさせるような、本当にかすかで微細な揺らめきかもしれません。それは論証もできず、外側からは独りよがりのように見えもするもので、ただ信じるところにのみあらわれるかのようです。
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