内的宇宙への探求:読み解きの試みから
最近の師の投稿で、とくに分からない箇所があり考えていました。
とんでもない勘違い満載かもしれませんが、今取り組んでいる姿勢に従い、思索の試みに挑戦しました。
彼らというのは、"(有史以前からの)祖先たち" のこととあります。
この「事実」とは、「神と共にいる」ということではないでしょうか。
有史以前からの祖先(人類)の内には、神あるいは絶対的に超越的な存在と形容するしかないものが内在し、彼らが生きる上の認識として、その存在は彼ら自身と一体になっているかのように、決して切り離すことのできない繋がりをもたらしているものだったのでは。
「学説」というのは、「学」自体が有史以前にはまだ生まれてないことから捉え方が分からなかったのですが、「人を含む外部からの知識や情報」と捉えてみました。
また有史以前 "から" なので、学説が登場した時代以降は、そのままの意味となろうかと。
この学説に彼らの心を捧げることよりも、内在によって生きることの方が、必至であるがごとく重要だった。学説に心を注ぐことは、内在によって生きることの妨げにすらなったのでは。
この投稿を読んでいて、師の著書の第一章が浮かびました。
上記の引用にある「原意識」という言葉について、本書に註釈があります:
人間が大宇宙と共に直接結びついていた時代、有史以前の祖先は、この原意識のうちに生きていた。
悩みを持つようになる以前の意識。
そんな意識で生きられるなんて、想像もできない。現代の私たちの意識は、ほとんど悩みでいっぱいなのではないだろうか?
上の「事実」について「神と共にいる」というところは「大宇宙と共にいる」と言い換えると分かりやすいかもしれないですね。
悩みが生じる前の意識、大宇宙と共にいる意識。大宇宙というものがあるという事実は決定的で、それゆえにあまりにも大きく、重かったのでは。
それなしでは自分たちが存在しえないということが、自分たちが存在している(生きている)という事実とイコールの認識にあったということではないだろうか。
それがここで述べられている「人間意識」というものではないでしょうか。
再び、投稿の文中から引きます。
先の「人間意識」、つまり最初の考察の、「神あるいは絶対的に超越的な存在と形容するしかないものが内在し、彼らが生きる上の認識として、その存在は彼ら自身と一体になっているかのように、決して切り離すことのできない繋がり」だったから、「極めて普通のことであった」のではないか。
彼らはこの繋がりから、その超越的な存在、神、大宇宙との交流をごく自然に通わせながら、人間意識を発展させていったのではないだろうか?
その交流、繋がりが「絶対者の雷光が彼らの霊魂に突如としてのぼった経験」をもたらすものとなった。深い結びつきがあったからこそ、そのようなものがもたらされた。
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今日、ネツァクについて思索をしていました。昨日は3枚すべてが障害のカード、そのうち2枚がネツァクだったからです(①S7 ②S10 ③C7)。
ずっと解けなかった疑問を考えていました。なぜネツァクは創造と結びつくのに、タロットにおいて障害としてこんなに手強いのだろう?
ある文章にとまりました。
ふと思いました。
人々が、他者(あるいは彼/彼女の行動)を拒絶しようとするとき、他者自体に無関心や敵意を抱くのではなくて、本当はそれら - を通して映る「何か」を拒絶しようとしているのではないでしょうか。
それは、「光」なのでは?
自分の前で他者が "輝く"。その人がその「光」によって "輝く"と、その光が照射され、自分の「闇」が照らされる。
だから、見下したり敵視したり、あるいは無関心を装ったりして、目を背けようとする。何とか「闇」を認識することから逃れようとするのでは?
でも実際には、何をもっても逃れられない。ただ苦しい。それは本来の、人間が生きる願いではないからではないでしょうか。
逃げて楽になるのなら、逃げ続けるのもいいかもしれない。でも人間は逃げるために生まれてきてはいない。
人間の生きる願いとは、その「光」と共に、光のうちに生きることではないしょうか。
なぜなら、この光と共に生きることとは、先の「人間意識(原意識)」での絶対的に超越的な存在につながり、その内的宇宙の中で生きることだと思ったからです。
自分が学んできたことも、このことを求めてきたのだと思います。
原意識を失った私たちの意識は、「闇」のうちにあります。だから私たちは、ありのままの自分として生きることを恐れます。
でも本来は「光」のうちにいたのです。
それは(有史以前からの)祖先たちに原意識があったことによって明示できるからです。彼らが遺してくれた遺跡や神話、伝承など、文字が生まれる前に生み出された超越的なものとの交わりのしるしは、「光」によって発見し創造したこと、つまり光とともに生きていたことを裏づけるものです。
「光」と「闇」は、ネツァクの「極性」にも当てはまる。
ネツァクに障害が多くその障害がなかなかなのは、「闇」にある今の人間の意識から、「光」にある「内的宇宙」本来の人間意識へと移行する可能性がある場だからなのではないか。だからネツァクは実に、創造的なエネルギーの働きをもつのでは。けれども、その究極の意識の矛盾を体験しつづけるのは非常に忍耐を要するために、通常は障害としてしか感じられないのではないだろうか。
またネツァクの悪徳は、現代の人間の娯楽の形態そのものであり、そこに住み着いてしまった意識は、どこが悪徳なのか気づけないほど鈍感になってしまう。
だからその鈍感さに「光」があたるほど不愉快なものはないのではないだろうか。
ネツァクには「勇気」というキーワードがある。本当に屈しやすいため、戦う勇気が断トツに必要な修練の場なのだと思う。
しかし「闇」と戦う本当の相手は私たち人間ではなく、「光」によってなされる、だから潜在的にその「勝利」は決まっている。
私は今まさに、ネツァクの場にいる気がする。
これまで信じられてきたものが、不意に信じられなくなっていた。Swords 7 の6本の剣が表す「自分が本当に求めるものを故意に打ち壊そうとする否定的な考え、何かを実行しようとする意思を妨げる考え」が、これまでになく立ちはだかっていた。
でもこれすらも「心の逃げ」だと。師の講義での走り書きにあった。
昨日からの思索の試みで人間意識、内的宇宙のことを辿ってきて、もしこのことを信じられるなら大丈夫だと思えた。
改めて、タロットの視覚化訓練がこの宇宙へつながっていくための修練ならば、私はこの道を新たに信頼して歩いていけると感じられました。
タロット、壮大なこの試みにつながっていける喜びが、ふたたび湧いてきました。
あの一節が浮かびました。「光のある間に光を信じて、光の子になりなさい」
師が最も言わんとされたい核心には辿り着くどころか離れてしまいましたが、この思索の試みによって理解不能な不信から助け出されたことを、心から感謝いたします。
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