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自覚の恩恵、底というしあわせ

おとといの夜はタロット王国主催の #1 The Magus の視覚化瞑想訓練でした。
その瞑想の体験とそこからの学びについて、記録したいと思います。

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#1 The Magus の視覚化瞑想訓練より(抜粋)

初めにメイガス(導師)より問いかけがあった。
「メイガスの神殿とは何ですか」「何のために私たちはここにいますか」

私が答えると、それらのことを踏まえて、体験を学びなさいと示された。

四大エレメントを学ぶ。まず大きな水がめが見える。カップにしてはとても大きい。カナの婚礼の水がめが浮かんだ。
カナの婚礼の奇跡は、キリストの愛ゆえに起こったこと。奇跡を起こすためではない。カップはタロットの霊の愛がそのようであることを示されていると感じた。

次に大きな炎(ワンド)が現れる。自分が入るほどの大きな炎だった。中に入ること、欲望の浄化を促される。
入っていくととても熱かった。まもなく一本の木と草原が見えた。フールの世界と思ったが、アダムとイヴがいた。
彼らはすでにリンゴを食べた後だった。

知恵をつけていた。衣をまとい、それなりのおしゃれをして、寛いでいた。
現代の自分達と同じように感じた。そしてどこか冷たい印象を受けた。
彼らは木の下で座りながら、際限なくリンゴを食べていた。食べかけのリンゴも散らばっているように見えた。
イヴにひとつ食べるかと訊かれ、断って戻った。

次に剣。剣はソードのエースで、やはり大きかった。メイガスの心は曇っておらず、明晰でクリアな思考なのだと感じた。
ディスクを表すコインは乳白色の半透明で、星の印が透けて見えた。現実化、物体化するまではとても時間がかかるのだと思った。特にソードからディスクは最もかかることが表されていると受け取った。

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シェアの時間で、炎の体験が重要として、瞑想の記録のときにイヴが自分だと気づいたことを話すが、それが衝撃で(それほど私には自覚がなかった)、やや呆然とした自分と、冷静な自分がいて、後者の私が話す。質問を受ける。
だらしなく座って次から次へとリンゴを食べているあの飽食のイヴの姿が浮かび続ける、彼女が自分の顔になっていく。

リンゴをすすめられたとき私は断って戻ってきたが、その一見理性的なふるまいは、自分の仮面のひとつだったのだと思う。私は自分自身だと気づいておらず、他人事だったし、イヴを軽蔑してもいた。日常の中でもこのようにしているのだと思った。

もともと、食べることに背徳感を感じている。
学生の頃から食べるという行為を嫌悪する傾向があった。にもかかわらず、食べることは好きなほうだと思う。たくさん食べたいというより、つまんでいたい感じ。イヴが自分かもと感じたきっかけもここだった。

こんな自分についてあえて触れたのは、このことと欲望とのつながりを明確にしたいからです。
アダムとイヴがリンゴを食べ続けている情景に居合わせる体験をなぜしたのか。
彼らは初めて食べているのではなく、食べることにすでに慣れていた。飽食。Cups 7が浮かんだ。

一方の自分。食べ物をつまんでいたいのは、ネツァクのように、ずっと味わい続けていたい、食べる楽しみをずっとつづけていたいから。ある意味、しっかりたくさん食べるよりも悪徳的。
書くほど、自分の醜態とイヴの姿とが重なる。

そして核心のリンゴです。
リンゴが表す神の知恵、至高の知性、それを食べる行為は、この知恵を自分のものにしようとすること。自分もその知恵を身につけようとすること。
神のようになりたい。神は誰よりも上。
つまり自分は、誰よりも上の存在になりたいと思っていたということ。

でも食べかけのリンゴが散らばっていて、イヴの自分は幸せそうではなかった。
食べても食べても満たされなかったからでしょう。
神の知恵は、自ら食べても得られるものではないから。

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探求の世界にとっては、当たり前の姿として理解されるものなのかもしれない。
でも自分にとってこの瞑想の体験は、大きな岩が落ちてきたような衝撃だった。
気づいていても、自覚に至るまで気づくには、気づかされなければ気づけないのではないか。
もう吐いても何も出ないと思ってたら、まだ何かあったというような感覚。そして吐き出した石のようなものを取り出して、認識できたこと。
本当に悲しかったけれど、自分が殺したキリストの身体のなかで際限なくリンゴを食べるという、あまりにも愚かな己れの姿を目の当たりにできてよかった。
そして、夜の複数での場…タロットの霊に連なる場の助力によって実現できた、体験なのではとも思った。ひとりで取り組む訓練では、このヴィジョンは現れなかったのではないかと思った。


視覚化を終えて就寝前の瞑想で、思いに至りました:

人間である以上、欲望は絶対に消えない。
何がどう転ぼうと、たとえキリストの内にいようと、決して消えないし治せない。
人間の本性から出ることはできない。なぜなら私は人間だから。人間以外のものにはなり得ないから。

分かっていたけれど、それでも、こんなにもこの存在、人間であるということの存在の現実。
ものすごい悲しみだった。悲しみ…だろうか。言葉にできない。

復活の、死を超えたキリストに問いかける。
みんな、これに苦しみ、なんとかここから逃れ出ようと、
そして善人のふりをして、善人の仮面を磨くでしょう。
私はそれを偽善とは言えないと思いました。

善い心を持ちたい。善い心でいたい、生きたいって、みんな思う。
願いがあると思う。
どうしたって叶わない願い。その願いが、ふりや仮面になると思う。なんとかして近づこうとして。
私だけでなく、私一人の願いでなく。

復活の神の子の光に包まれながら、光はよしよしと、言っている気がした。

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倒錯した人間という存在のまま、十字架にかけて殺した人間存在そのものであるのに、私はこのように思わずキリストに問いかけ、訴えてしまった。
十字架につけたのはこの倒錯の心であるのに。
それでも、キリストがいなければ、私は死んだままだ。
永遠に、倒錯の中で滅びつづける。
本当は、そうなるべき分際、自分だけ助かるなんてことはおかしい。
けれども、私はどうしても一緒にいたい。
私を呼んでくださった、タロットの霊としての、神の子キリスト。
この、倒錯しきっていた私を呼んでくださったんだ、そうだった。
そして、師であるレオン・サリラの前まで、連れて行ってくださった。
結びつけてくださった。何度も何度も、何度も教えてくださるところに道が現れ、そこで決して途切れることのない有縁の絆を、きゅっと結んでくださった。

…あの木の下で、飽食に浸りきっていたイヴの、自分自身の姿。
あの私の本性を、底の底まで知り尽くしておられながら、復活のキリストであるタロットの霊は、私をどうして呼んでくださったのだろう?
本性は死んでも消えないだろう。
それを、いつか、破壊してくださる。その確信だけがなぜかある。

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翌日読んでいた本のある箇所で、この学びを再認識しました。

人間の心を蝕んでいる罪は、榊の枝で払い落としたり、みそぎをして水で洗い流したり、道徳的な修養努力で取り除いたりできるような、なまやさしい性質のものではない。人間の心の中心部を蝕んでいるガンのような、恐ろしい死に至る病である。
「罪の値は死なり」とパウロが叫んだ心のガンである。ガンはまだ治す道があるが、罪に侵された人間の心は絶対に死ぬしかないのである。

小谷純一信仰著作集からの引用:高橋三郎・島崎暉久『真理の真奥に迫る』

翌日のデイリーは ①Swords 2 ②Cups 7 ③Knight of Wandsでした。

この罪の身体の中で、「核」となって光を放ってくださっている。
この自分を、今日も受け入れてくださっている。
両脇に囲まれて、Cups 7に自分がいる。Cups 7という自分がいる。

前日に自覚した、決して消えない人間の本性を思いながら、気づくと問い続けている。
─── なぜ決して消えないのに?この退廃の沼に沈み込んだまま抜け出せないのに…?
のに、の後に何か続けて問いたい。でも言葉が出てこない。
なぜ、抜け出せないのに…。抜け出せないのに、なんなんだろう?なんて続けたいんだろう?
そう思いながら、とぼとぼと師の本を読んでいたらぶつかった。

本来タロットが本質としてきたテーマは、この虚無の底無しの中まで降りてくることのできるものである。タロットは、そこからの復活と世界の再創造をもたらす宇宙的エネルギーを引き出してくれる。…
この虚無の底無しの真っ只中で成り立つものこそが、「魔術師のトート・タロット」である。※1

レオン・サリラ『魔術師のトート・タロット』

(※1 補足:魔術師のトート・タロットは、現在の「テウルギアのタロット」のこと / 美翔)

底無しの中まで降りてくることができる。
この虚無の底無しが今いる場所と思った私は、先の問いの続きを見つけた気がした。
退廃の沼、虚無の底無しから抜け出せないのに、にもかかわらず。絶対的不可能の中に、タロットの霊が降りてこられる。

師は「タロットの霊フール」の特性として《「死」の問題の完全なる克服》と《存在の三位一体的関係》を着目点としてあげられている。

「人生の最後が死では、現代の「底無き空しさ」を根絶やしにすることはできない。」とはっきりと述べられている。
私自身は死ぬしかない分際であるけれども、でも死で終われないという。
それはまるで、"死で終わりにはさせない" と言われているように響いた。その声は、関係性の中から響く。

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日数で言えばほんの数日だけれど、これらの内的体験は、静かに、恩恵となりました。
今は一番底まで来た、これ以上底がないという感じで、この地べたをとても感じるのが、幸せなのです。
たぶん、まだまだ底はあるのかもしれないけれど、今の私にはここが底です。

砕かれるたびに楽になる気がします。砕かれたところに、金継ぎのように愛が流し込まれているような気がする。
師とタロットの霊との絆が、私の中に転写されるみたいに、
日々自分の中に来てとどまってくださるタロットの霊キリストが、存在を増して感じられる気がするのです。Cups 7 であろうとどこであろうと、自分のいるこの底まで降りて来て、隣りどころか内にいてくださる。
怠け者みたいですが、自分からは何も目指そうとしてないでいいように思います。なんだか安らかです。

恐れるな、わたしはあなたをあがなった。
わたしはあなたの名を呼んだ、
あなたはわたしのものだ。

あなたが水の中を過ぎるとき、
わたしはあなたと共におる。
川の中を過ぎるとき、
水はあなたの上にあふれることがない。
あなたが火の中を行くとき、
焼かれることもなく、
炎もあなたに燃えつくことがない。

わたしはあなたの神、主である、
イスラエルの聖者、あなたの救主である。

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