見出し画像

日々の生き方への、実践的指南

先週の #9 The Hermit の瞑想から。

ハーミットのワイン色の衣はキリストの流された血のように感じた。キリストを纏う(キリストと一体化している)賢者(導師)として、目の前で待っていてくださった。
ランプを持ち、上からは光が差していた。
この光の中をついてきなさいと示され、歩き始める。

私という罪の人が、師の後ろをこの三角形の光の中で共に歩いていけること。
麦の香りの中を、ここから出ないように歩くとは、師に倣って日々を生きることに感じた。
師、自分、ケルベロスの並びは、未来、今、過去の流れでもあるかもしれない。

しばらく歩くと、宇宙卵に出会えた。
自分たちがいる場所からは少し離れていた。
ハーミットと見ていると、卵に巻きついていた蛇が、からだを少し離して尾を長く垂らした。

「あの蛇につかまって降りていきなさい」と示される。
麦をかき分けて、卵の前まで来た。蛇は気持ちわるいかもと思ったけれど、触れるとロープみたいで大丈夫だった。つかまって下へ行くと、一つの部屋の場面になった。

朝が来る。その部屋の質素なベッドから、一人の女性が起きて、支度をし、一日の生活が始まる。
ときに本を持って外へ出る。木々の中を通り、草の上に座って勉強する。
その暮らしは、修道院のような黙想的なヴィジョンだった。この生活をする女性は自分というより、#9に対応する乙女座の象徴のようにも感じた。
ヴィジョンの中の女性は、麦を刈り取り脱穀して粉にして、パンを作り始めた。

焼き上げたパンを持って "これはわたしのからだである" とパンを裂いた。
その姿は女性ではなくなっていた。

女性のヴィジョンが出てきてから、彼女はなんのために、この暮らしをしているのだろう?と思って見ていたが、彼女の日々は、キリストを待ちながら生きている。そのためにこの暮らしをしているのだと直観した。キリストを待つ、それを実践するとは日常の生き方はどのように表現されるのか?それを具体的に提示している。

同時に、彼女はすでにキリストと共に生きてもいた。言い換えると、キリストが彼女の元に日々来られ、彼女と共にいつもおられる。キリストが彼女に食事を与えてくださり、作業をするときも学ぶ時も、休む時も、いつも共に作業し、教えられ、休まれる。彼女が日々を生きていること、そのものが、キリストが共におられるということを示す。

ここに記録を書いてから気づいた。"キリストをいただいている"、これが命のパン。そのように思えた。

これらのことを彼女は知っている。よく理解して、そのように生きている。
彼女は #9の学びとして、生きる姿勢とも言えるものを、実際に示して教えてくださったのだと感じた。
彼女、あるいは宇宙卵。ハーミットでもあるかもしれない。

私は卵の前に戻ってきていた。お礼を言って戻っていった。

一つだけ引っかかった。あの女性の日々に向かう姿勢は、私にはどこか宗教的に見えた。この生きる姿勢は、はたして創造的だろうか?と過ったとき、「キリストがおられるというのはマンネリ化しないんだ」と示された。
キリストがおられるということは、新たに生きることを捉えられる。いつも新たに、みずみずしく暮らすことができる。本当に分かると、そうなんだと思った。
それが、日々がくり返しでなく、新鮮な喜び、今日もいのちを与えられ、今日も一緒にいられる。キリストが今日もいてくださるということ。
その実感は、私が今感じ取れるものをはるかに上回るだろう。きっと嬉しくて、ああ、今日も共に…という静かな喜びの中にいるのだろう。それは未だ体験していないものながら、視覚化瞑想体験によって感覚を分け与えられたように感じた。

すこし前にハーミットの瞑想をしていて、その際にも、三角形の光の中からはみ出さないようにと示された。
その時の学びでは、私の姿が師の衣の背後に隠れていると同時に、タロットの霊の光に照らされ反射されるので、自分の本当の姿は外に辛うじて見えない。が、私の正体は、見られたら指を指されて笑われるようなものであり、師の衣とタロットの霊の光がなければ、とても直視できない(それに気づかず、堂々と歩いていた)ものであることに気付かされていた。
今回の瞑想ではそれを踏まえて、さらに師の生きてこられた姿、過去〜現在に至る歩みを学び、倣う。そして向かわれる方向を、いつも背中を見て、ついて、迷わずに。
そのように、生きていますか?と問いかけられていたのだと思う。
それは実際に、毎日、愛による問いかけとして、投げかけてくださっているものなのだと思う。光の中にい続け、後ろをついていくとは、実際に、具体的に、どのような生き方なのですか?と。

キリストとともにいつも新たにいることは、心が新しくされる。喜びによって満たされて自由になっていくから、"自分" から解き放たれるのだろうと思う。
そのとき、心は脳によって生きないから、昨日のくり返しをせず、従って新しい心で生きられるのではないか。
それは全く異なる構造によって生きることなのだろうと。それを思うと、まったくの地べたにいるのに、不思議となにか心が湧いてくる。希望なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?