「この橋渡るべからず」なら真ん中を通る。では「犬は静かに」ならどうすればいい?
久々に愛犬と行った公園で、ブランコの脇に唐突に置かれた赤いコーンに足を止めた。「早朝はお静かに」という大きな文字、その下に「飼い犬の鳴き声で近隣の方がご迷惑しています。ご配慮ください」と小さく書かれた紙が貼られていた。
いつも通る道上にあるものは全て把握できている犬にとって、突如現れた謎の物体は敵か味方かを見定めねばならない。愛犬は態勢を低くし、鼻先だけを物体に近づけ、大袈裟なほどの鼻息を立てる。愛犬の後ろから、私も首を突き出して一字一句に再度目を通す。出所は「公園管理事務所」。敵か、味方か。
たまにしか来ない公園だから「敵」ではない。けれど、犬を飼っている側の一人としては「敵」だ。犬を飼っている人と飼っていない人の間には目には見えない、しかし確固とした隔壁が存在する。まるで「迷惑」というお札によって結界が張られるように。この隔壁は犬を飼っていない人たちによってつくられたわけではない。張り紙を設置した公園管理事務所にだって悪意や敵意はない。住民のために地域の環境をよくしたいだけである。「犬を連れている」ことが「迷惑をかける」という社会全体の何となくの意識や認識によってつくられている隔壁なのだ。
たとえば「迷惑」を「困っている」という言葉に置き換えてみる。「拒絶」から「相談」となり、返事は謝罪の「すみません」から打ち明けてくれたことへの感謝の「ありがとう」にならないだろうか。突き出した銃が花束になるほど状況が変わるかもしれない。
今盛んに言われている「人と動物の共生」には「人」と「動物と暮らす人」の共生も含まれる。交わることを避ければ相互理解できる日は来ないだろう。「この橋渡るべからず」的な一方的な張り紙ではなく、ご近所さんなら膝を突き合わせて話し合えばいいのだ。
犬連れ、赤ちゃん連れ、障がい者、高齢者、皆それぞれ暮らしの中で困りごとを抱えている。「迷惑をかけないように」と隔壁を設けるのではなく、「困っています」と交わって距離を縮めれば、それぞれの立場で考え、妥協点を見つけることができるのではないだろうか。
さっきまでへっぴり腰だった愛犬が、コーンに体を寄せ片足をあげておしっこをひっかけた。「ダメ!」と慌てて水で流したが、雄犬としてより高所にマーキングしたいという愛犬の言い分もあるだろう。立ちはだかる隔壁。相手の気分を害さずに張り紙を撤去させる方法、一休さんならどうするだろうか?
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