見出し画像

旧東海道ウォーク⑧ 平塚宿→大磯宿

2022年7月8日(金)晴。
過去2回は、東京の自宅から日帰りでしたが、今回からは1泊2日の行程を組んで進めます。


1.<第七番>平塚宿 その2
2.高麗山・高麗神社
3.化粧坂
4.<第八番>大磯宿


1.<第七番>平塚宿 その2

まずは東京から平塚まで移動。

新宿駅から約60分で到着

ちょうど前日が、「ひらつか七夕まつり」の日で、街の中には七夕飾りが残ってました。

きれいな飾りや、子供たちの願い事の短冊を見ながら、江戸見附前に到着。ここからスタートです。
時刻は9:10。今日も暑い日になりそう。

ここ平塚宿を使って、宿場町の構図を説明していきます。

江戸見附=宿場町の江戸方の入口。江戸から来ると、ここからが「〇〇宿」となる。石の土台の上に土を盛った土居に矢来(柵)を置くのが基本形。
脇本陣=公家や大名などが泊まる本陣だが、そこに泊まり切れないときに使用する宿舎。普段は一般の旅行者も宿泊できる。通常の旅籠よりは立派な様式だったらしい。宿場の規模により複数あることがある。平塚は1か所。
高札場(こうさつば)=幕府や領主が、その地の法度や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、高く掲げておく場所。宿場の中心か入り口に置かれることが多い。
問屋場(といやば)=人馬を用意しておき、旅をする大名一行の荷物を次の宿場までに運んだり、必要な人馬を貸し出していた場所。その後、幕府の書状を次の宿場へ届ける飛脚業務も行うようになった。一つの宿場に複数あることが多い。
本陣=公家や大名などが泊まる宿泊所。玄関、書院、門構えなどを備えていたが、現存する者はわずか。宿泊者も限定されているため、実際の経営状況は苦しかったとも言われる。

平塚宿の本陣跡は、9:20に通過。
ちなみに、平塚本陣跡は、現在は信用金庫の支店の敷地になっています。

本陣の先で、旧道は脇道に。
分岐の場所には、2つめの問屋場跡。
国道1号に合流し、左へ曲がります。正面の小高い山は、高麗山。
京見附=江戸見附と反対にある、宿場町の京方の入口。江戸から進むと、ここで〇〇宿が終わりとなる。
京見附の西側にあった、「平塚宿」の碑。

平塚宿を後にして、西に進みます。


2.高麗山・高麗神社

大磯町に入ります。
左手には、東海道線の相模貨物駅。現代の問屋場とも言えるかしれない。
花水川を渡ります。この少し下流にある新花水川橋が、、箱根駅伝の平塚中継所。
丹沢の山々が、少しかすんでます。
茅葺の民家。立派な造りです。
高麗山と高来神社。同じ「こうらい」でも、字が違う。

平塚宿から見る高麗山は、東海道の進む正面にあり、「あの山を越えるのは難儀だから、今日はここ(平塚宿)で泊まろう」という旅人が多かったとか。ただし実際は山の裾野を迂回するので、アップダウンはなく、「だまし絵」のような存在だったみたいですね。

大磯町の汚水マンホール。

3.化粧坂

国道1号から右に分かれます。
化粧坂というゆるやかな坂道。松並木が残っていますが、江戸時代のものにしてはやや小ぶり。
大磯(化粧坂)の一里塚跡。江戸から十六里目。
当時は海の眺めが素晴らしかったとか。
東海道線を斜めにクロスし、地下道でくぐります。
松並木が続きます。海風で傾いたか、斜めになっています。

平塚宿と大磯宿の間は、1里(4km)と短く、間もなく大磯宿に到着です。


4.<第八番>大磯宿

江戸見附跡
国道1号に、合流します。大磯宿の本陣跡

大磯宿の本陣跡。10:05着。前の平塚宿から45分で到着です。

大磯宿の本陣の案内
間取り図。土間が広く、部屋数も多い。15LDKくらい?
外観は一部で面影を残して、レンタル着物の店になってました。
海側へ少し脇道になります。
再び国道1号に合流し、「湘南」の地名発祥の碑。
日本三大俳諧道場のひとつ、鴫立庵。和の趣が感じられます。
壮大なスケールの自転車道のようだ。
初代「統監」伊藤博文が、大磯駅から別荘へ向かうために作った道が、バス停の由来。
大磯宿の京見附
大磯中学校の脇にありました。

短い距離ですが、ひと区間を歩きました。
次の小田原宿までは、4里(17km)とかなり長い・・・。

大磯宿を抜けて、小田原へ。

ここまでありがとうございました。

平塚宿→大磯宿
 距離 4.0km
 所要 45分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?