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旧奥州街道ウォーク② 白沢宿→氏家宿

こんにちは、ばーどです。

2024年5月3日(金)。
北関東を代表する川、鬼怒川を渡ります。



1.鬼怒川の渡し

「左右が水田」の道
鬼怒川の土手に突き当たる 上って左へ
土手から来た道を振り返る
土手道を上流方向へ
合流する利根川河口から87km地点
分岐を右へ
土手の内側に下り林の中を進む

しばらく進むと、鬼怒川の渡し跡の札。
今は河川敷の草原が広がり、水面は全く見えないが、かつてはここから対岸へ渡し船が出ていたそうです。
対岸までは、橋のある場所まで迂回して、進むことにします。

鬼怒川の渡し跡 標識札
護岸はあるが川面は遠く草原が広がる
道なりに林の道を進む
先ほどの土手に戻ってきた
土手道に合流
土手下の麦畑と森 北海道を連想させる景色
県道との交差点を右折

いよいよ鬼怒川を渡る

阿久津大橋 歩道がないぞ!
橋からも川面は遠くまだ見えない
やっと川が見えた
橋の上でさくら市に入る
川の流れはだいぶ対岸寄りだった
なかなかの水量だ
シルビアシジミは貝ではなく小さな蝶
渡り詰めを右折する
ふただび土手道 今度は下流に向かう
対岸の川原は緑の芝の公園

渡し船の到着地点を示す目印は見つけられなかったが、河口から88km地点付近と推定し、旧道ルートに復帰します。

土手を下りて進むことに
T字路を左折する
県道との交差点を右折

2.将軍地蔵

街道の風景
上阿久津交差点を左折

鬼怒川を渡った阿久津地区は、東北地方の諸藩から陸路で運ばれた物資を、ここから鬼怒川の舟運で江戸に運んだ中継地として栄えた地。また、船頭たちの信仰がもとで神社や稲荷がいくつも建ち、参詣客で賑わいを見せたとも言われています。

浮島地蔵尊・船玉神社・与作稲荷・高尾神社
阿久津村から氏家村へ続く逢坂を上る
新興住宅地が広がる
今日の昼食はこちら
あまりの暑さに冷やし中華を注文

注文したあとに、「氏家うどん」というメニューがあったのに気づく。
地元産の小麦を使った素朴な味、とあり、こちらも良かったなと思いました。(冷やし中華も美味しかったですよ)

昼食後、しばらく進むと、将軍地蔵の森があります。
奥州征伐に向かう源義家が、鬼怒川の悪蛇に行く手を阻まれていると、将軍地蔵が現れて蛇を退治したという言い伝え。
うっそうとした森に入ると、一瞬だけ俗世を忘れてさせるような、静かで不思議な世界でした。

うっそうとした森
将軍地蔵のお堂
ムーンスター(月星シューズ)の物流倉庫だろうか?

旧街道のルートはこの倉庫の敷地を通っているようですので、敷地沿いに迂回します。

次の角を右折
一つ目の角(看板手前)を左折 旧道に合流
ベイシア・スーパーセンター <本社:前橋市>

3.お伊勢の森

国道4号線バイパスを横断
お伊勢の森
説明板

お伊勢の森。
伊勢神宮を勧請して設けられた社。周りの森とともに、この名でよばれたとのこと。当時は一帯が森だっただろうが、今は水田と住宅が広がる中に、ここだけ樹木が残るので、ひときわ「森感」が強くなってます。

東北本線を横断
旧奥州街道踏切
仙台方面を望む

奥州街道の宇都宮から白河までの区間で、ここが唯一の踏切です。

周囲は水田が広がる農村地帯。GWはちょうど田植えのシーズンなので、この時期ならではの風景が見られます。

田植えが終わったばかりの水田
苗を運ぶ車
田に水を引く水路の締切板
勢いよく水田に水が流れ込む
水田と水路
田植えの後に水が引いたのだろうか

写真にはありませんが、家族総出で田植えをしているほほえましい風景にも、数多く出会えました。


4.<第二番>氏家宿 

県道181号線とのT字路 左へ
合流点には地蔵様と石碑群
道標には「右 江戸海道」とある
説明板

江戸時代の氏家宿は、主要道路がいくつも通る「交通の要所」でした。
まず、今通っている「奥州街道」が、江戸と白河を結んでいる。
ここの追分を右に進み、常陸国へ通じる「水戸道」。
会津と今市を結ぶ会津西街道が通行不能となり整備された「会津中街道」。
那須野原を横断して白河で奥州街道と合流する「原方道」。
これらの街道とともに、阿久津河岸からの鬼怒川舟運もあり、人流や物流が盛んだったようです。

追分を振り返ると桝形の形を残していた
直進が水戸道 右折が奥州街道(江戸方)
宿場の中心に向かう
平石本陣跡 現在は歯科医院 14:35着
一部古い街並みが残る場所も
村上脇本陣跡 現在は自動車販売
石井脇本陣跡 現在はグループホーム建設予定地
石町ポケットパーク ここで小休止

氏家宿内にあったとされる、氏家の一里塚は、その場所が不明です。
江戸から三十一里目にあたります。

青銅不動明王がいる光明寺の参道
青銅不動明王に見下ろされる 迫力ある姿
宿場町の風景
上町交差点 奥州街道は右折
会津中海道は直進
上町交差点の角の民家が印象的
スタイリッシュな古民家
明治の創業「きくや」 呉服店と写真撮影

氏家宿は人流も物流も盛んだった、と前に書きました。
内陸部ではあるが、水戸道で運ばれた新鮮な海の幸を食すことができた、
江戸の歌人や俳人が多く移り住み、俳諧文化が花開いた、
などの逸話が、文献にも残っているそうです。

少し進むと、今も街道沿いに残っている二つの旧家が、ありました。

豪商だった村上家 棟木門
古地図にも載っている
五十里湖決壊による洪水の水位がここ

1683年の大地震によるがけ崩れで鬼怒川の支流がせき止められて誕生した五十里湖(いかりこ)が、その40年後の大雨で湖が決壊して洪水を引き起こし、下流にあたるこの地にも大きな被害があったとされています。

紡績業で財を成した瀧澤家の長屋門
長屋門の説明板
住宅全体の説明板
明治天皇の休憩所 鐡竹堂
望楼を備えた蔵 何とも優雅な造りだ
敷地は広く、だいぶ先まで塀が続く

本陣などがあった地区には当時の遺構は残ってなかったが、中心を抜けると明治期の旧家が残されていて、少しほっとしました。

時刻は15時近く。今日は次の喜連川宿まで進み、温泉にゆっくりつかる予定です。

白沢宿→氏家宿
 距離 7.5km
 所要 1時間50分(休憩除く)

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