「生きる」の思い出

「生きる」のハリウッドリメイクがそろそろ公開されるようだ。私が初めて見た黒澤映画だったと思う。もしかしたら「羅生門」の方が先だったかも知れないが。あの時は、私が高校を卒業した後だった。

私は中学の頃から自分は高校、大学、就職という道をストレートに上がると思っていた。両親が両方ともそういう道を歩んでいたからかもしれない。高校の時も同じで、学校内で模試の点数や大学の合否判定等で盛り上がっていた。しかし、高校三年の夏に、そこについて疑問が生じたのだ。本当にそれでいいのだろうかと。それは同時期に祖父の日に日に弱っていき、臨終に至るまでを見届けたり、父の会社が問題を抱え、大学の資金が出せなくなるかもしれないという状況が重なったのもあるかも知れない。私の中学の頃からあった指針が本当に目的地を指しているのか、見当がつかなくなったのだ。

私はもっと何ができるのではないかとか、大学に行かなくても本を買って自分で勉強するというのもありではないかとか、様々な疑問が私を覆い尽くす中で、一番根の部分は自分探しだったのだろう。自分は本当にこの道が一番正しいのだろうか、もっと他の道があるのではないのだろうか。今思えば、早めにこの疑問に当たって正解だったと思う。大学に行ってそんなことに時間を費やす必要もなかった。そんなことを考え、自分は大学に行かずに就職を目指そうともしたが、高校の教師や親に今更それは無理だと止められ、なんだかんだ受験したが、そんなにやる気がなければ受かるはずもなく、卒業後は就職活動の道へ進むことになった。

そんな状況で黒澤明監督の「生きる」を見た。何で見たのかは覚えていない。持っていた淀川長治さんの本に載っていたからだったと思う。その時はパートしかしていなかった母がいて、二人で見ていた。そこで起きた143分間は多少色褪せながらも心の中に残っている。

内容は書くまい。ただ、見終わった後に、自分探しを捨て去り、エネルギーが体に満ち溢れた私がいた。「生きる」を見る前の私は驕り高ぶっていたのかも知れない。自分にはもっと向いている道があると。しかし、この映画は、それを打ち砕いてくれた。仕事は金のためではないし、出世の為でもないし、生活のためでもない。先ず人の為に働いてこそ価値があるのだ。それが誰にも気付かれなくても、また誤解をされようとも、誰かのためにほんの少しでも役に立つことが出来るのであれば、それだけでいいのだ。

今の仕事が自分に向いているとは、正直思っていない。頭のいい人達に囲まれていると、世界が違うのだろうなと思うこともある。不器用なのに器用な仕事が求められ、上手くいかないなといつも思っている。しかし、それでも、毎日平気な顔して働いているのはこの映画のおかげだ。人の為になっているのかなと思いながら、物を作り続けている。あの時受けた感動が、私を今でも動かし続けている。

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