龍と瑠璃(るり)の玉 ~短編歴史物語~
天平感宝元年(西暦749年)、
新緑が万緑に変わり始める初夏、その万緑を水面に映して流れる長谷の渓流は、涼やかな音を立てていた。
白波立つ早瀬では、若鮎が身をくねらせて岩のコケを食み、至る所で銀色にきらめいている。
川が高い崖でさえぎられ、大きく湾曲したところは、底が見えないくらい深い淵となり、水面も鏡のように静かだ。
水面の上空には、早朝に羽化したばかりのカゲロウが、何匹もふわふわと漂うように飛び交っている。
羽化したその日のうちに交尾を終え、川面に産卵し、翌日にはその短い命を終えるという。
上空を舞うカゲロウは、波もなく静かな淵の水面への産卵のタイミングを探っているのかもしれない。
一人の若者がその様子を、岩陰からじっと見つめていた。
そのうち、一匹のカゲロウが、やや高度を下げ、水面に落ちるようにひらひらと舞い降りはじめた。
若者は、右手に握った石つぶてに力を込めた。
カゲロウが水面近くまで降りた時、その直下の水面が盛り上がった。と同時に若者の右手がさっと閃いた。
万緑の水面を突き破るように、一匹の大きなイワナが跳ね出した。そして、空中でそのカゲロウを口に咥えた瞬間、若者の投げた石つぶてがイワナの頭部に命中した。
イワナは、石つぶてに跳ね飛ばされるように横向きにバシャンと落ち、脳震盪でも起こしたのか、水面にその大きな魚体を横たえた。
身の丈2尺(約66㎝)はありそうな巨大なイワナである。
若者は淵からイワナを引き上げ、持ち帰るために笹の茎を顎に通した。
「速魚、見事なイワナだな。
得意の『つぶて打ち』か?」
速魚と呼ばれた若者は、聞きなれたその声に振り向かず、気絶から覚めたイワナを、生き締めにしながら答えた。
「そうだ。多分この淵のヌシだろう。美しい魚体だ。」
「あいかわらず見事な腕だな。
その腕を見込んで頼みがある。」
思わず手を止めた速魚は、声の主、吉備真備の舎人を務める、幼馴染の琢磨を振り返った。
都ぶりの衣装に身を包んだ琢磨の昔と変わらぬさわやかな笑顔がそこにあった。
「吉備真備さま直々のお呼び立てだ。
是非もなかろう。」
天平7年(西暦735年)、唐から無事帰国して以来、その学識の深さで時の聖武天皇や光明皇后の寵愛を受け、
飛ぶ鳥の勢いで出世する吉備真備は、国家統一の象徴として、都に大仏を作る責任者でもあった。
そんな吉備真備の屋敷で速魚が見せられたのは、唐から持ち帰ったという、群青色に輝く美しい石の球だった。
「なんと美しい・・・」
「これは唐や天竺のさらに奥地でしか採れぬ、
貴重な『瑠璃』という石で作られた玉だ。」
「瑠璃の玉・・・」
「この瑠璃の玉には、人に害をなす妖物を鎮る力があるという。
この玉を使って大蛇を退治してほしい。」
当時、奈良の都と伊勢の国とをつなぐ大和街道は、鈴鹿の山を越える辺りで深い谷に張り付くように沿う、細くて危険な道だった。
特に北在家と呼ばれる辺りには、どんなに水が澄んでいる日でも川底が見えないという、真っ青な深い深い淵が街道沿いにあった。
その淵には長さ10間(18m)もある巨大な蛇が棲んでいて
「大蛇が淵」と呼ばれ、時に大和街道を歩く旅人を襲っては、その宝を奪い取るという。
「元々、我らの遙か前、この瑠璃の玉を求めて唐に渡った一人の高僧がおった。
しかしようやくたどり着いた天竺の奥地で、
不運にも賊に襲われて息絶え、その魂が空を飛び、
大蛇となって鈴鹿の淵に住み着いた・・・
と言われておる。
旅人を襲い宝を奪うのも、
この瑠璃の玉を求めての所業かもしれぬ。
速魚、その大蛇を退治、いや、助けてやってくれぬか。」
「助ける・・・?」
「大蛇と言えど元々は相当な修行をした高僧の魂の化身。
瑠璃を欲しがるのには、何か訳があるに違いない。」
その年の盛夏、天平勝宝と改元され、東大寺の大仏の鋳造が終わった晩秋、吉備真備の命を受けた速魚は、高貴な貴族の衣装を身に着け、その懐に瑠璃の玉をしのばせて、鈴鹿の山の「大蛇が淵」へ向かった。
速魚が淵に近づくと、急に空が黒い雲で覆われた。
いつの間にか周囲の地面から草木が消え、和の国とは思われぬ、石と土だけの荒野になっていた。
崖の端に続く細い道の下は深い谷となり、闇のように黒々とした深い深い淵が、急にざわざわと波立ち始めた。
巨大な爆音とともに、雷が空を縦横に走り、仏法に言う地獄とはさもありなん、と速魚は思った。
と、その時、淵の水面が大きく膨らみ、巨大な蛇の頭が現れた。口からは火のように赤い二股の舌が、獲物を定めるように動いている。
大蛇は鎌首を水面から高く持ち上げ、速魚の姿を真正面から見つめると、身体をゆっくりとバネのように縮めた。
そして、まさに、速魚に飛びかかろうとする刹那、速魚の右手が風のように動き、瑠璃の玉は一直線に空中を飛んで、大蛇の口元に光る牙に当たった。
その瞬間、大蛇は巨大な煙となり、姿を消したかと思われた。
しかし、その煙の中から、瑠璃の玉を口に咥えた、輝く竜が現れた。
「おお、これは、
わしが探し求めていた瑠璃の玉ではないか・・・。
彼の地でこれがあれば、黒装束の妖物たちを退け、
砂漠の地を、実り豊かな緑の地に、
変えることができたのに・・・。
無念じゃ。」
そう言うと竜は、
瑠璃の玉を思い切り噛かみ潰つぶした。
同時に竜の身体も幻のように消え去った。
砕け散った瑠璃の玉は、青い煙となって、
辺り一面の野山に降り注いだ。
空の黒い雲も、青い瑠璃の煙も消えて、辺りに静寂が戻ったとき、速魚は、周囲の野山が緑の草木の覆われ、足元に見慣れぬ細い葉が何本も繁った草が生えているのに気付いた。
そしてその草の根元に、美しい群青色の玉のような実が
いくつも実っているのを見つけた。
「まるで瑠璃の玉のように美しい・・・」
青い実をつけた細い葉の草は、鈴鹿の地面の至る所に繁っていた。
その時速魚は、遠い昔、天竺の遥か先まで瑠璃の玉を求めて旅し、無念にもその地で果てた高僧の願いが、おぼろげながら、わかったような気がした。
※ここでいう瑠璃とはラピスラズリという鉱石で、
昔からアフガニスタンがほぼ唯一の産地とされてきた
貴石のことをいう。(故・中村医師に捧ぐ)
作:birdfilm 増田達彦
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