【余談】高校生最後の一年を終えようとしてるので、半生反省会してみた

 もう年末ですね…クリスマスまではイベントオーラ真っ盛りなのに、クリスマスを終えて年末に向かうにかけての惰性感と言ったら…。
 と、そんな話は置いといて。僕の人生もいつの間にか18年以上の時を経てきたわけですね。ついこの前まで小学生だったような気がするのに、いわゆる「青春」の季節が過ぎようとしている実際。
 自分の話なんて、わざわざ人目に晒されるような場所でするべきか…?と今でも思ってるんですけど、これも一つの節目ということで、おそらく今後再び節目を迎えない限りは二度と顕れないであろう自分語り…というか、自分反省会をします。
 それでは、すたーと。


 時は18年前、現世に爆誕しました。生まれた頃からかなりミニマムでコンパクトな身長体重だった自分。その特徴は18歳の今でも順調に引き継がれております(怒)。
 小さい頃から両親の寵愛を受けまくった結果、口を開けば未知の発言が止まらないエンドレススピーキング赤ちゃんと化した自分。食事中も常に何かを伝えようと必死で、食べ物が口に入らないわ入ってもなかなか食事が終わらないわで苦労したと聞いています。ちなみに今でも、食卓に最後まで残るのは自分です。食卓って談笑の場でもあると思ってる今の自分は、この頃の環境から作られたものなのかもしれませんね!
 珍しく野菜も平然と食していた雑食系赤ちゃんだったのですが、唯一この頃から食べれなかったのは「果物」。特に柑橘系はずっと苦手で、今でも口にすら入れられません。
 さて、しばらく成長すると、両親がどちらも忙しい環境もあって保育園に預けられます。しかし、あまりにも僕が泣き喚いて、暴走を止まなかったこともあって、なんと保育園2日でリタイア。なんてやつだ。
 ただし、人見知りというわけでもなかったみたいで、ショッピングモールとか行くと手当たり次第に知らない人に話しかけるコミュ力モンスターであり、一周回ってただの厄介チャイルドでした。
 諸々の不安も募る中、ついに幼稚園に入園。同時に、今住んでいるところにも引っ越してきました。果たしてこんなクレイジーな赤ちゃんが幼稚園に適応できるのか…という不安も的中。もはや制服を着るのすら嫌がり、アルバムに入っている入園式の写真の僕は全て泣き崩れています。幼稚園の門で絶望の表情を浮かべながら座り込む写真が結構お気に入り。
 そんな人間が幼稚園に入ってからも(主に両親が)苦悩の連続で、まず幼稚園には行きたがらないし…ただ、幼稚園でも友達は結構出来て、やっぱり「人に会うのが嫌い」っていうわけではなくて、「集団の一員として生活する」のが心の底から嫌いな謎の反逆者体質。単純に、人に合わせるのが苦手だったみたいです。今でもなんとなく分かるような気もします。
 家族はというと、まあそれなりに厳しくされました。特に挨拶とか、態度とか礼儀みたいなものは厳しくて、家族内でもあって「ありがとう」と「お願いします」は欠かさないようにと言われました。今でもその名残はちゃんと残っていて、家族とのLINEはほとんど敬語です。友達に言うと結構驚かれるんですけど、僕はむしろこうじゃないと落ち着かないんですよね…。
 両親が結構忙しかったこともあって、あまり親とは遊べなかった自分。ただ代わりにというか、一人で淡々とLEGOをやったりLaQをやったりするのにドハマりし、一生一人で何かを作っている人間でした。プラレールのレールを敷くのも大好きで、とにかく「何かを作るのが大好き!」な自分は、昔一人で遊ぶ時間が長かったところから来たのかもしれません。
 それから、なんとなく体を動かしたくなった僕は、幼稚園でやってた「体操教室」に入ることになりました。マット運動とか結構やったので、今でもマット運動は得意です。
 幼稚園年中の頃、妹が生まれました。それに伴い、家に誰もいなくなってしまったので、ド田舎の祖父母の家に預けられます。ここからしばらく、幼稚園には通えずに田舎のド真ん中で遊び回っていました。家出て右見ると森! 野生のお猿さんとか猪にも会えちゃうし、夏は無限にセミの抜け殻を採集できます。外に出るとクソデカい蜘蛛がいたり、寿命でナヨナヨになってしまったカマキリもいました。僕にとって自然の中で遊ぶ経験が貴重だったのもあって、虫とかに嫌悪感を抱くこともなく、むしろものすごく心惹かれたんです。僕が今生物学で特に昆虫を研究しようと思っているのも、このときの体験がきっかけですね。
 夏は全国ニュースで取り上げらるくらい暑いのに、冬は雪が降りまくって激寒な祖父母の住んでいる町。おじいちゃんと一緒にはじめて雪だるまを作りました。花瓶をかなづちで叩き割って雪だるまのパーツにしてくれるパワフルなおじいちゃんでした。そしてこの季節、こたつでぬくぬくしながら「天装戦隊ゴセイジャー」の第一話を見たのを今でも覚えています。僕は戦隊ものはシンケンジャーから、仮面ライダーは少し遅れて「仮面ライダーフォーゼ」から見始めました。
 両親の身辺にも整理がついて、妹が家にやってきました。もうとにかく嬉しかった僕は、一生妹にくっついていました。生まれたてなので特別なレスポンスがあるわけでもありませんでしたが、今までずっと一人だけだったのが「新しい仲間が来たぞー!」と喜々として妹を迎え入れました。
 ある日、お父さんが買ってきてくれた「てれびくん」をきっかけに、毎月てれびくんを買ってもらっていました。他にも「ほねほねザウルス」とか「LaQ」もときどき買ってもらったし、誕生日には戦隊もののロボットを買ってもらって、変形合体シークエンスをひたすら再現しまくります。カメラワークまでしっかり気にする、幼いながらのプロ意識もありました。
 そして幼稚園年長くらいから、突然自分の意志で水泳を習い始めました。どうしてでしょう、今でも分かりません。
 そしてなんと、僕はこのときからお父さんにパソコンを貸してもらっていました。あまりにも一人の時間が長かったからか、Youtubeとかも見せてもらってました。まだタイピングは出来なかったので、Internet Explolerのリンクから飛ぶようにしてYoutubeを見ていました。
 年長の冬、卒園直前の東日本大震災。記憶は曖昧ですが、我が家もかなりの被害を受けました。食器とかかなり落ちてたし、しばらく停電も起こりました。ただ、そんな中思っていたのは「妹だけは絶対苦しませないぞ」ということ。まだ1歳にもならない妹と一緒に机の下に隠れていたのは、かなりはっきりと覚えています。
 そんなことがあって、僕の幼稚園生活は幕を閉じます。そして物語は、波乱の"小学生編"へ…。


 小学一年生、幼稚園の惨劇が再び。
 とにかく「新しい集団に入る」のが嫌な僕は、めちゃくちゃ登校を嫌がります。なんと小学一年生ながら「行ったふりをして一日マンションの階段裏にハイドする計画」を実行。当然学校から連絡が来たようで、開始から1時間で親に見つかって学校へ駆り出されました。
 そんなイヤイヤ期も数か月で収まり、それなりに学校生活に適応していきます。ですがやっぱり「人に合わせる」のが性に合わない人間だったのもあり、幼稚園のときほど人間関係には順調にいかず…。だんだんとクラスにもヒエラルキーが構成されていくのですが、そんなこと知ったことではなかった自分は「とりあえず誰に対しても同じ接し方しとくか」くらいの思考でいた結果、ヒエラルキートップと衝突します。普通に材木という天然の鈍器で頭を殴られて病院に搬送されました。たんこぶが11個出来るくらい滅多打ちにされたのですが、生還しました。人体ってすごいな…って思いました。
 学校ではなかなか上手くいかない中、ある日革命的な出会いをしました。ショッピングモールを歩いているとき、目を引くものが。そこは「科学の実験教室」でした。ミドリガメの水槽を眺めながら、即決。「ここに入りたい!」、小学一年生ながら既に科学の子でした。これもやっぱり、自然の中で生きた一年間があったのかもしれません。そのあと、小一の頃から家から遠く離れた場所で泊りのフィールドワークに参加したり、なかなかの行動力を見せました。今思うと、理科分野は小学校の頃から中高範囲のものを履修していましたね。ボイル=シャルルの法則とか、小学生の頃にやった気がします。
 他にも、小学一年生の頃に買ってもらった3DSから「ニコニコ動画」にハマりました。当時はROM専だったので、ひたすらボカロとかゲーム実況とか見てました。カゲロウプロジェクトとか、懐かしいね…。ちなみに初めて聞いたボカロは千本桜でした。当時ちょうど投稿されたくらいだったかな…?
 さて、舞台は学校に戻ります。基本的に人間嫌いではなかった僕は「どうしたらいいのかなぁ」と試行錯誤。小学二年生くらいまで輪の中に入れなかったんですが、とにかく何かしてみようと思って、さりげなく話しかけてみたり、帰り道の途中にちょっと話してみたり。結果、3年生くらいからは比較的普通な人間関係を築き、色んな子とたくさん仲良くなりました。とにかく「どんな人にでも優しくしてみればいいんじゃない作戦」は成功したんですね。あんまりたくさん話すわけじゃない子も、やんちゃな子も、いつの間にか「もうクラスのみんな友達になっちゃったのでは?」というように、どんどん仲間が増えていきました。当時てれびくんの影響もあってハマっていた「ダンボール戦機」で仲良くなった友達もたくさんいました。プラモデルも大好きで、友達と自分のプラモデル自慢したりして…。
 そのプラモデルの趣味は長く続きます。おじいちゃんに「プラモデルが欲しい!」と言ったある日、おじいちゃんはダンボール戦機ではなくガンダムのプラモデルを買ってきました。ガンダム全然知らなかったんですが、「プラモデルならいっか!かっこいいし!」と思って製作。お父さんがガンダム好きだったのもあって、そこからガンダムにドハマりします。
 テレビでやってた「機動戦士ガンダム」「機動戦士ガンダムZ」の再放送だったり、当時放送していた「鉄血のオルフェンズ」だったりを見たりしました。その趣味はどんどん広がっていって「ロボットアニメ」まで広がりました。「装甲騎兵ボトムズ」から「天元突破グレンラガン」まで、漫画では「真マジンガーZERO」を読んだりしました。この頃、技術職に憧れたのか、プログラミングを習い始めました。飽きて一年で辞めました。
 今思い返せば、このときが人生の大きな転機だったかもしれません。ロボットアニメのことをネットで調べたりしてたところから、2chとかまとめサイトのロボットアニメ板に張り付いていました。小学生の頃からねらーとか信じられませんが、まあほとんどレスはしていませんでしたね、ROM専です。最初はロボットアニメ板だったんですが、だんだんと色んな板を巡回するようになりました。さすがに身の回りで「ニコニコ動画見てる」とか「掲示板巡回してる」とかの趣味の人はいなかったんですよね。まだ小学三年生だったし…。
 友達とはポケモンとかダンボール戦機とかガンダムとかの話をして、帰ったらネット巡回、ニコ動巡回…そんな生活をしていました。
 そしてある日、突然思ったんですよね。「僕の方が面白いロボット作品書けるんじゃ…」って(←!?)
 謎の自信もあって、僕は作品を"小説"として書くことにしました。当時よく使っていたガンダムの総合掲示板で、ハンドルネーム付きでガンダムの二次創作を投稿していました。そのときのハンドルネームが「birdeater」でした。
 どれくらいの人が見てくれてたかを知る指標がなかったし、当時の僕にとっては「書くこと」が目標だったので、どれくらいの人が見ているかなんて気にしていませんでした。今思うと迷惑だったかもしれません…というか、当時めちゃくちゃ色んな人に迷惑かけたと思います。僕のネットヤンキー時代です黒歴史です恥ずかしい。ただ、今のネットリテラシーも、小三、小四のネット巡回の経験があってのものだとも思っています。
 こうして小説を書き始めていた僕ですが、学校でも大きな転機が訪れます。実は一人だけ、ニコ動とかネット掲示板に造詣のある女の子がいました。当時小学生なんで、男子だろうが女子だろうが遊びに誘われれば家まで遊びに行ってたんですけど、ある日の帰り道に告白されました。
 それでなんて返したと思います!? 僕、「それは、○○の好きにすればいいんじゃない?」って言ったんですよ! ドライというかもはや真空ですよ!そんな極限状態で恋が生存することはもちろん叶わず、やがて窒息死しました。もはやいつ死んだかも分からないような状態で。ただ、もし今の自分があのときに遡れたとしても、同じことを言うかもしれません。そして、それがもし"今"の出来事だったとしても、です。人と会うのは好きなんですけど、やっぱり「誰かと足並みを揃える」っていうのが好きじゃなくて。だから、もし人と一緒にいるなら「僕を引っ張ってくれる」ような人がいいな、なんて思っています。思い返せば、今の僕の友達ってそういう人ばっかりです。
 小学四年生の頃、幼稚園から習っていた水泳を辞めます。体操教室はもっと前に辞めてるんですけど、具体的にいつかは覚えてません。水泳、結構長くやって上達したんですけど、周りの人より全然泳ぐの遅くて「才能ないかも…」って思いながら続けるの苦痛だったので辞めました。代わりにゴルフを始めて、自分用のゴルフクラブとバッグ買ってもらったんですけど、一年で辞めました。飽きました。
 そして、小学校の頃の最も大きなイベント。
 周囲の状態について、疑問を持ち始めます。小さい頃から怒られ慣れていたので、学校の先生に怒られること自体にはさほど苦痛は感じませんでした。その都度「なんだこのやろー!」と思うことはあっても、やっぱり悪いのは自分だし、向き合わなきゃな…と反省することも多かったので。
 ただ、小学5年生、6年生の頃の音楽の先生がとにかく「クラス単位で怒る人」で、誰かの不誠実は連帯責任…という人だったんです。それで、「自分は何もしていないのに、自分も怒られている」という状況が本当にどうしようもなくて、しかもそれが毎日続いてたんです。音楽室が隣でしたから、自習中とかうるさいと、わざわざ教室まで怒りに来てました。授業もいわゆる「職員室まで学級委員が呼びに行くまで授業が始まらない」静寂タイプで、特に学級委員でもありませんでしたが、かなり精神に限界が来てました。ただ、その先生だって悪意でこんなことやってるんじゃない、ってことも当然分かってしまって、だからこそ「感情の行き場」みたいなものがなくて。それが理由で、一度首を吊ったこともあったんですけど、痛かったのでやめました。普通にガチで痛いのでオススメしません。
 ただ、自分以外を変えるなんて出来るはずがなくて、そんな毎日は終わらなくて…それと同時に、自分が如何に何もできない人間かを知ってしまったような気がしたんです。当時から学校の勉強は卒なくこなせて、友達もたくさん作っても、毎日こんな生活続けてるんじゃ何も幸せじゃない…。だから、小学校卒業したら、そこで節目かなって思っていました。
 小学校の卒業。卒業論文では、「とにかく誰かの役に立てる人になりたい」って書いてました。小学校の先生、振り返ればとっても良い人ばっかりで、委員会も美化委員としてひたすら学校掃除したり、先生もいっしょに掃除してくれたりもしました。ただやっぱり、自分の中にあるものは変わってなくて、この頃の自分が一番荒んでいたかもしれません。
 ただまあ、帰ってから友達の家行ってみんなでスマブラしたりマリオしたりしてたので、嫌なことばっかりでもありませんでした。
 そんなダークネスな状態で小学校を卒業した自分。結局、決意が出来ないまま中学へ進みます。
 本当に大事な、僕の中学校生活へ。


 中学校に入りました。最初の半年、とりあえず惰性で生きていました。目の前にあることをやろう、と。
 僕が小説を書いていた板は、一旦別のサーバーに映りましたが、それから1年もしないうちにサーバーごとなくなってしまいました。僕の作品たちも丸ごといなくなりました。これも運命かな、と思って、それを機に小説執筆を辞めました。
 クラスの状態も、小学生の頃とそこまで変わりません。とりあえず必要なことをこなしている自分、自分以外が怒られているのに巻き込まれている自分。結局中学になっても、起こっていることは同じなんだな…と思っていました。
 2学期が始まって、後期委員会決めになりました。中学の委員会は必須ではなかったので、1学期から特に何も入っていなかった自分。部活も「科学・PC部」という準帰宅部に所属して、ほとんど何もしないまま生活していました。
 ある日の放課後、担任から呼び出されました。
「○○さ、学級委員やってみないか?」
「いえ、やりません」
 かなり即答だったと思います。ってかめっちゃぶっきらぼう!
 すると担任の先生、「そっか…ちょっと考えてみてほしい」と悲しそうな顔。
 また一週間後、「学級委員、やってみてくれないか?」と二回目の呼び出し。なんかこの辺りから「そこまで言うなら…」みたいな感じになってました。
「どうして僕なんですか?」
「普段しっかりしてるし、ちゃんと周りのこと見てると思ったから」
 必要なことはとりあえずしてるし、忘れ物をしないとか、宿題やるとか、先生の話は静かに聞くとか、挨拶をするとか、こういうのはやっぱり家が厳しかったので、それなりに身についていました。周りのことを見てる、っていうのも「どうして自分に出来ていることが出来ないんだろう」っていう不信の目だったかもしれません。
 それから何度か呼び出されて、「学級委員、どうだ?」と話しかけてくれました。この担任の先生、めちゃくちゃいい先生で、呼び出すときもすごく下手から「どうしてもやってほしいんだけど、どうかな…?」と聞いてくれて、あまり面倒だとは感じませんでした。そしてついに、僕は学級委員に任命されることになりました。
 学級委員になったからには色々頑張るぞ!ということで、惰性で生きていた中学生活に明確な「生きがい」が出来ました。クラスが怒られるときって「先生の話を聞いてない」「忘れ物が多い」「時間までに席に座ってない」だと思ったので、これをどうにかしないといけないな…と思いながら、友達相手を中心に、さりげなく明日の授業の持ち物確認してみたり、僕もみんなの輪の中に混ざりながら「そろそろ教室戻らんと間に合わんよ!」みたいなこと言ったりしてました。あとは声が大きかったので、呼びかけもうるさいほどしてきました。多分めっちゃ嫌われました。
 ただ「仕事した気になってるだけ」じゃ終われないので、毎日家に帰ってお風呂に入りながら「どうすればよかったかな…」と考えてました。結局、最後に行きつくのは「みんなと仲良くなる」でした。当時はじめて自覚したのですが、定期テストの順位が比較的高く、先生にも一目置いていただいていたので、積極的に勉強教わりたい人を募集して、みんなで教え合ったりしてました。自分から教えにいくとウザいやつなので、出来るだけ話しかけやすそうなオーラを放ちつつ、向こう側から話しかけてもらうのがいいな、というスタンスでいました。それ以外にも一緒に話す友達をたくさん作って、そういう中で「あー、明日って何準備するんだっけ」「あれ、今日って集会あったよね?」みたいなところから話していきました。これが成功だったか失敗だったかは分かりませんが、最初に比べれば遥かにみんなの行動力が変わったな~と思います。
 学級委員の経験…特に「自分以外の他人の行動を変える」というところでは、人生の価値観に大きな影響を与えました。自分がどう頑張ったって、人の行動って変えられないんですよね。だから、とにかく「自分から変わらなきゃダメだ!」と思って、中学入学時と卒業時で、まるで別人のように変わったと思います。小学生の頃もっと陰気な感じでしたもん。
 「自分に関係ない人が怒られてて、自分が巻き込まれてる」っていう感覚がだんだん「自分に"関係ない"人がいると思ってるから、自分が巻き込まれているように感じるんだ」「身の回りに他人事なんてなくて、それは自分が何もしてないだけなんだ」という感覚に変わっていきました。自分が何もしていないことって、それだけで自分の責任だと感じるんです。自分が何かしていれば変わったかもしれないものを、ただ傍観していたことにも責任があって、だからこそ見ているだけなのは嫌だ!と思うようになりました。
 明らかに一部の層からは鬱陶しがられてましたが、まあそういうこともあるか…と思いながら、それを言い訳にしちゃいけないぞ、とも思って、出来るだけ多くの人が「楽しい!」って言えるような学級を心がけていました。「全ての人が楽しいなんて、そんなの無理でしょ」と言われたこともありましたが、それは僕ら施策する側が言い訳として使っていいセリフじゃないんだ!という信念を胸に頑張りました。
 中学の頃はひたすらアニメにハマって、年に140作品近いアニメを見てました。今思うとわけわかんない数見てます。それもそのはず、当時アニメを見る以外の趣味は何もありませんでしたから。小説書くのもやめてましたし。ニコニコ動画とネット巡回はまだやってましたね。
 それから2年半、色々ありながらも学級委員として頑張りました。個人としての行動力というか、責任感みたいなものは、全部中学で養ったと思います。
 受験は、特に行きたい高校があったわけではありませんでした。ただ、小学一年生の頃入った科学の実験教室は続けていました。「進むなら絶対理系だな」と思って、偏差値68くらいの高校の理数科に入ることにしました。特に塾にも行っていなかったので、お父さんとのマンツーマンで毎週勉強していました。お父さんは「僕がさぼらないように見守る」のが仕事でした。お父さんがいなかったら一秒も勉強してなかったと思うので、めちゃくちゃ感謝してます。
 しかし、平穏な中学生活はコロナによって一度遮られました。全校休校のとき、正直めちゃくちゃテンション上がりました。家帰ってみんなでゲームしまくりです。
 そして大体このときですね、僕は「ミリシタ」を始めました。アイマスを知ったのはもっと前、ニコニコ動画を見ていましたから、小学生の頃です。ただ、中学二年生のときにアニメを見て、そこからアイマスにハマって、とりあえず765プロのアイドルがいるミリシタを始めることに。すると当時、生配信で1stから5thまでのライブが一挙放送していて、それを見て「ミリオンライブめちゃくちゃ良いじゃん!」と、おそらくかなり稀な「ライブからミリオンライブにハマった」プロデューサーになりました。
 休校中はミリシタの他にもデレステやシャニマスもやっていて、バンドリもやってみたり、FGOはかなりがっつりハマって当時最新だった二部四章か五章くらいまで一気に追いつきました。そこから声優さんのラジオも結構聞くようになりました。他にも、趣味で手品を始めてみたり、占いを始めてみたりしました。占いは出来るんですけど、占いって対面で相手の様子を見ながら「その人が生きる助けになるように」するものなので、言葉だけで結果をお伝えしても面白くないと思いますから、いつか僕に対面で会うことがあったときは占いますよ!
 そんな中、受験勉強も並行。修学旅行などは中止になってしまいましたが、特別な一年にはなりました。
 私立受験直前に「RED ZONE」のイベントが来て、「(どうしよう…)」となったのも良い思い出です。
 僕の人格を養ってくれた、そしてアイマスとも出会った中学校。すっかり生きる希望を見出した僕は、更に希望の「高校生活編」に突入します。


 高校に入学するまでの1か月、めっちゃ暇でした。
 高校から課題こそ出てたんですけど、まあギリギリに終わればいいか!と思い、代わりに新しいことを始めたいな~と思っていました。そこで目に入ったのが、おじいちゃんのおさがりのウクレレ! 「楽器弾けるのいいな…」と思って、ウクレレを弾き始めました。
 高校の入学事前説明会、なんと前日は「まぁたんゆりりん」第一回。まだ「まぁゆり」のタイトルもなく「Machicoの新番組」でしたね。第一回で駒形さんが一緒にMCをすることが発表されました。僕の高校生活はまぁゆりから始まりました。
 実は当時から既にMachicoさんのファンで、アメブロも一番昔のから全部読んでました。まだデビューする前の頃から毎日ブログを書かれているの、本当にそこに「人生が綴られている」みたいで、すごく感動したんです。どんな一日も前に進もうとしているMachicoさんの姿に感銘を受けました。
 高校入学。僕は「せっかくなら学級委員を続けたい!」と立候補。最初の委員会決めで進行をすることになったのですが、「出納」を「しゅつのう」と呼んで先生にめっちゃ笑われました。クラス初笑いです。でもあとから調べたら別にしゅつのうでも良いって(ry
 さて、そこから初めての「新学期考査」がありました。そこで僕は絶望的なスコアを叩き出します。ウクレレにかまけてた結果でした。これじゃいかん、と思い、しっかり勉強開始。毎日家に帰っては青チャートを解いてました。
 まだコロナ禍だったので制限も多かったのですが、クラスのみんなとはすぐに仲良くなれました。「変わり者が多い理数科」との言われでしたが、まあそれはお互い様ということで、そんなに変わった印象は受けません。「みんな違ってみんないい」という感じで、わざわざ「君変わり者だなぁ」と感じたことはありませんでした。
 あとすごく真面目なので、高校入ってこの方学級委員の仕事何一つありません。暇です。
 ただ、委員会の負担が0になった代わりに、勉強の負担は増えました。油断してるとどんどん成績落ちてくので、なんとか頑張って全体として見れば「上の下」くらいをキープしてました。
 さて、そんな中、僕の高校生活には懸念がありました。
 最初の担任の先生との面談のとき、
「高校ではどんなふうに成長したい?」
 と聞かれました。
「何か突出した特技が欲しいです。今、自分だからこそ出来る、っていうことが何もないんです」
 中学で養った"責任感"は、特技と呼ぶにはちょっと怪しいものです。特技欄に「責任感」って書くわけにはいかないので…。
 突出した能力を持つメンバーが揃う理数科。「数学がめっちゃ出来る」「きのこについてやたら詳しい」「量子力学大好き!」。そんな中、僕にある知識は「アニメめっちゃ見たことある」「ネットスラングいっぱい知ってる」「科学の実験教室の影響で全般的にうっすら理系知識がある」くらいで、当時は大好きだった虫のことも、中学のアニメ三昧な生活のせいでほとんど忘却していました。そんな中、僕がこれから生きていく上で「"これが出来ます"っていう強みが欲しい」と願っていました。だから高校では、とにかくいろんなことに挑戦するぞ!と思い切りました。最初は軽音部に入ってやろうとか思ってたんですが、陽キャのオーラが眩しすぎたのと、楽器買う予算が無かったので諦めました。結局、準帰宅部のパソコン部に。
 さて、高一の夏休み。僕がやっていたFGOに2部6章「アヴァロン・ル・フェ」が追加されました。これがめちゃくちゃ面白くて、しばらくそのことしか考えられなくなったんです。そして自分の心の中に、ふつふつと湧き上がるものがありました。
「自分もこんなに面白い作品書きたい、いや書く!」
 板が閉じてから、特に発表する場もなく、気が向いたときにメモ帳に書き留めていただけの小説たち。でも、せっかくあるなら世の中に公表してみてもいいんじゃないか、そんなふうに思い始めました。
 さらにトドメを刺したのは、当時本屋さんに取り寄せてもらって読んだ「ゲッサンミリオン」。これもアヴァロンルフェに負けず劣らずの最高の作品で、これで踏ん切りがつきました。
「小説家として活動再開しよう」
 毎日パソコンに向かって、小説を書く毎日。高一の夏にはTwitterのアカウントも作って、Pixivとなろうとカクヨムのアカウントを取得、FC2ブログとアメブロを開設しました。Machicoさんがそうしていたように、僕も出来るだけ毎日ブログを投稿して、「いつかまた振り返れるように」と記録していきました。半年ほど続きましたが、今は更新できていません()
 それから、高校では理数科の一大イベント「課題研究」が始まりました。自分たちの研究したい分野について半年~1年間チームで研究し、最後に全体で発表するものです。選抜されたチームは全教員、全校生徒、大学教員、企業の方々、保護者、有志の卒業生ら1000人を超えるオーディエンスの中、市内の一番大きなホールで発表することになります。
 もうこれがとにかく大変で、毎日7時まで学校に残って資料集めと実験方法の吟味、実行、必要な物資の確保、プレゼン用の資料作成…一年次は生物分野で「生分解性製品の実際の分解速度は、条件によってどのように変わるのか」を研究しました。高校の研究と言えど、最終的に国や研究機関にも届けられる「研究」ですので、一切の甘えは許されません。チームメンバーと共に協力して進めていきます。
 さて、そんな中執筆がはかどるわけもなく、学業と課題研究でスケジュールが埋め尽くされていたとき。まだ小説もほとんど投稿できていません。
 そういう中で支えてくれたのは、中学の頃からの趣味だった「グループラインでの通話」でした。高校に入ってからも、中学の友達と集まって話すのが好きでした。高校に入ってからはDiscordに移行しました。
 そこで、中学の頃の学級委員の友人とお話していました。2年半学級委員長を務めていた人で、高等専門学校の電子工学科に進みました。プログラミングや回路工作も出来ちゃう人で、僕が今最も信頼している友人の一人でもあります。
 そしてある日、こんなことを言っていました。
「なんか、ゲームとか作ってみたいんだよね。プログラミングやってるし」
 ちょうど小説を書いていた、だけどなんだか上手くいかなかった僕。思いつくことといえば、一つだけです。
「今小説書いてるんだけどさ、それベースでゲーム作らない?」
 本当に何気ない一言。だけど、僕たちの行動力は中学の頃に既に養われています。
「妹が絵描けるから頼んでみる」
「友達が作曲できるんだよね」
 そしてちょうどそのとき、親の厚意で「ウクレレ以外にやってみたいものある?」と聞かれて「ギター弾きたい!」と言うと、すんなりギターを買ってもらえました。はじめてのギターです。
 ここは本当に、僕が恵まれていると思った瞬間です。「プログラムできる人」「絵が描ける人」「シナリオが書ける人」「曲を作れる人」が全員友達に集まっていたのです。一人ずつ、一緒にやらない?とお願いした結果、メンバーが集まりました。これが今僕が所属するサークル「by the Cue」の始まりです。
 一応創設者兼シナリオライターとして、僕が全体の制作進行や監督、演出を務めることになりました。この仕事はとてもやりがいがあって、みんな「ただ遊びでやってるんじゃない」という気迫を感じられました。夜3時とかまでキャラデザの打ち合わせやって、シナリオもしっかり推敲してもらったり、必要な背景や演出を指定したり…今ではメンバーが増えて、14人がゲーム制作に参加してくれています。もしかしたら、高校で一番頑張ったことはこの「サークル活動」かもしれない、っていうくらいです。
 課題研究も忙しかったですが、忙しい×忙しい = 逆に楽しいで、わけわからんくらいの作業をしながら生活した高校一年生の冬。学業もギリギリなんとかなってました。同時に、今まで作っていた作品がゲームシナリオに使われることになったので、新作「水銀のマリオネット」を作ることにしました。「異世界から来た魔法使いの女の子が現世の少女と旅をする」というテーマだけが先行していて、なんか雰囲気が「水星の魔女」と被ってしまったんですが、実は僕の方が発表が先です!信じてください!()
 というわけで、ひたすらに多忙な生活を送っていた高校一年生。高校二年生の春、はじめてエレキギターを買ってもらいました。飽き性の僕にしてはかなり長続きした趣味で、今でも毎日欠かさず練習しています。水銀のマリオネットも投稿を初めて、分かりやすいかなと思って自分でpixiv百科事典書いたら自演記事として削除されちゃったり(利用規約はよく読もうね…)
 ゲーム制作は難航していました。メンバーは全員学生で、うち大半は理数科。課題研究や学業と両立をしながらゲーム制作など出来るはずもないですが、全員かなり粘っていました。平日は学業と課題研究、休日はサークル…そんな生活を数か月続けました。
 そしてついに課題研究の選抜。僕たちのチームも選ばれ、1000人以上の圧巻の観客の前で発表することになりました。教員や普通科生徒からの質疑応答も大いに盛り上がりました。
 ですが、一年次の研究が終わるとすぐに二年次研究が始まります。二年次は研究発表を全て英語で行う、ということになっているので、英訳する時間や英語で原稿を作る時間も必要になってきます。途中、外国籍の大学の先生も来てくださってご指導いただいたりしました。分野は数学に進もうかと思ったのですが、生物にも近いということで化学を選びました。テーマは「銅鏡反応(銅メッキ)の安定化」です。
 そして同時に、徐々に近づいてくる「大学受験」。今回も「まあ大学なんてどこでもいいだろ」と思っていたのですが、かかるプレッシャーは高校受験の比になりませんでした。周りが優秀だったのもあって、「もしかしたらどこの大学にも入れず落ちるのでは…」という懸念さえありました。高校二年生くらいから、かなり勉強に力を入れたと思います。
 さすがに大学受験の間はサークル活動も出来ないので、一度プロジェクト凍結、という形にしました。大学受験をしない就職組や高専組には地道に作業だけ続けてもらって、サークルとして進めることはしない、ということにしました。
 高校二年生の秋、修学旅行。
 友達とひたすら西日本を堪能!めちゃでかいお好み焼き食べてお腹痛くなったり、Machicoさんの地元の呉行こうと思ったら時間なかったけど、ちょうど同じ時間帯に広島市にMachicoさんがいたみたいで(会えなかったけど)ちょっと嬉しかったり、ちょうどそのときやってたリプ祭りで返信もらってめっちゃ嬉しくなったり、わざわざ香川までうどん食べに行ったり、ホテルでエナドリ飲みながらみんなでサッカー観戦したり…思い出は数えきれません。
 高校三年生、ついに「受験生」と人から呼ばれるようになってしまいました。
 志望校はとりあえず、いとこも行っていてオススメされた筑波大学に。かつて虫が好きだったことを思い出し、「虫の研究するならここがいい!」と思って選びました。ですが、模試の結果もなかなか安定せず、不安も多い中、課題研究の発表も迫っていました。なんといっても、全く実験が成功していなかったのです。なんか適当に調合したやつでは出来たんですが、誰もそのデータをメモしておらず…(あとから先生に「化学の発見なんて、偶然なことも多いんだからさ」と励ましてもらいました)。
 結果、成功例の発表というよりは「銅メッキの析出の傾向」として発表することに。銅は銀に比べて、化学的なメッキが難しいのです。なので、「高校の設備で、簡単に銅メッキが出来る方法を確立しよう」という目的でやったのでした。理論的には導出できたのですが、実際はなかなか成功しません。ですが、「銅メッキを安定化、簡略化」という工業的な目的がはっきりしていたこともあってなのか、選抜を通りました。まさかの二年連続で選抜…めっちゃ嬉しかったです。高校で実験の厳しさを知りながらも、達成感や幸福感もたくさん得られました。
 本発表では後輩から「どうしてわざわざ英語で発表する必要があるんですか?」という質問が来ました。会場が笑いに包まれたあと、僕がマイクを持って回答させていただきました。

「今はここにいる皆さんのほとんどが日本人なので、日本語で発表しても伝わると思います。ですが、世界に目を向ければ、英語を使っている人の方が圧倒的に多いわけで。僕たち科学を研究する人間の目的は"より多くの人に成果を伝え、それを託していく"ことにあります。だからこそ、より多くの人に届けられるように、世界にこの結果を届けらえるように、英語で書く必要がある、英語で書くことには十分メリットがあると考えています」

 みたいなことを言いました。そしたらめっちゃ拍手を貰って「うわー気持ちーもっと褒めて―!」となりました。のちに学校のHPにもその質疑応答の場面が載ったのですが、改めて見てみると「なんか思ったよりもカッコ良くないな…」と感じた思い出。
 そしてついに、高校の長い長い、本当に大変だった課題研究も終わりです。個人的には受験勉強よりも大変でした。
 そしてついにここから「受験」の雰囲気になります。僕も出来るだけ毎日放課後学校に残って自習していました。夏期講習も必要なところに行き、早慶英語とかも積極的に受講した記憶があります。慶應の医学部のやつで脳破壊されました。
 とにかく暗記が苦手なので、試行錯誤しながら暗記に取り組みました。
 僕の個人活動も、「受験があるのでお休み」としていたものの、閲覧用のアカウントは欲しいし、元々「作品垢と趣味垢分けたいな」と思ってたので、夏に開設。今ではなんとフォロワーが300人越え、作品垢よりも全然多いです。作品垢もふぉろーして~
 それで、全く作品を投稿するつもりはなかったんですけど、「二次創作やりたいな」っていう意欲が結構あったんです。でも、アイマスの二次創作は「やりたい」より「恐れ多い」の方が強くて、結構迷いました。最初はガンダムの二次創作から執筆を始めた僕ですが、アイマスはなかなか筆が動かず…それに、受験生でプロット練ってる時間だってないし…そこで思いついたのが「まかべーと学ぶ」シリーズでした。
 まかべーと一緒に高校の数学や理科を学ぶことは、自分にとっても「理解度」を測って復習する良い機会だと思ったんです。それに、理系科目ってやっぱり敬遠されがちなので、まかべーたちの力を借りて「理学ってこんな魅力があるんだ!」っていうことを知っていただきたいな、と思ったのが発端です。いざ書き始めてみるとかなりストレスフリーで、むしろ楽しかったので、5000文字近い文量をほぼ毎日投稿でやってきています。

 そしてもう一つ欠かせないイベントが、高三の最後の文化祭。
 実は高校二年生の冬から「来年の文化祭でバンドやろう」とピアノをやってる友達から誘われていました。そこで、クラスでめっちゃ歌上手い子がいたのでボーカルとして誘って、ベースとドラムは友人が「始める!」と言ってくれて、バンドが生まれました。全員理数科出身のバンドです。楽器未経験者もいるバンド、最初はゆっくり足並みを揃えるところからでしたが、めちゃくちゃ楽しかったです。途中、それぞれ思うところもたくさんありましたが、本番では大成功でした! 「高校で友達とバンドをやった」のも、めちゃくちゃいい思い出です。

 さて、受験ですが、お父さんに「チャンスが一度増えるんだから、推薦受けてみてもいいんじゃない?」と言われ、ワンチャンくらいの気持ちで推薦を受験。ですが、実際に問題を解いてみると「あれ、小論文結構解けるな…」と体感。もともと字書きだった経験もあったり、情報暗記というより情報処理や読解、現象理解の方が得意な自分にとっては小論文は「まさしく自分が活躍するための試験」でした。さらに面接も好きで、元から「人と話すのは好き」だったので、面接練習も高評価をいただきました。
 試験本番はさほど緊張しなかったのですが、発表前日はド緊張。高専の友達と連絡しながら、「むしろそれだけ自信あるなら落ちるところ想像できんわ」とか言われて、元気を貰いました。
 結果、無事に合格。早めに合格した者として最初に思ったのは「サークルの方も再開するか!」でした。現在は一旦共通テストに向けて、あとは大学入った後のことを考えて勉強しつつ、作品垢も平常運転を再開しております。


 と、いう感じ。
 いやほんと、昔と今では全く別人ですね。
 人生、反省ポイントどこかな…と思ったんですけど、そんなにないですね。どれも自分を形作った、大切な出来事だったように思います。迷惑かけちゃった方には申し訳ないです。
 高校入って「自分に出来ることを見つけたい」と思っていた自分ですが、今ではもうこの手には収まりきらないくらいたくさんのものを得ました。サークルや課題研究を通して「本気で何かに向き合うこと」も出来たし、ギターと小説という「胸を張って言える」特技が出来ました。実際、推薦試験の面接でもアピールポイントとして活用できて、高校の自分、3年間でめちゃくちゃ成長したな…と思います。あとはブログを諦めてなければ100点でした。
 さて、落としどころが分からなくなってしまいましたが、以後こういうことを語ることはほとんどないと思います。Twitterとかで突然自分語りしてもどうしようもないので、日記程度にnoteに書かせていただきました。人から聞かれる分にはぜんぜん答えるんですけど、めったにそんな機会ないと思うので。
 高校卒業の後も、まだまだ人生は続いていくと思うとなんか背筋がぞっとするんですけど、今も友人が「起業するから将来一緒に働かないか?」と言ってくれていたり、今後の自分の作品、サークルの作品、バンドとしての活動がどうなるのかには期待が膨らみます。
 人生まだまだ捨てたもんじゃないですね。とにかくたくさん、やってみること。それが僕の人生を動かしてくれました。
 もはや「つらくても全然OK!」みたいなスタンスが身についてきたのも、僕の成長かもしれません。でもでも、これからももっと成長していきたいと思っています!

 さて、それじゃあここら辺で終わりにしましょう。
 未来の自分がこの記事を振り返るとき、どんなことを思うのかを楽しみにしながら。


 それでは。

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