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『abさんご』蜂巣ももチーム・ワークインプログレス観劇レポート|和田ながら

8月28日(日)、都電荒川線に揺られて小台駅で降り、のんびり歩いて、おぐセンターに。蜂巣ももチームの『abさんご』ワークインプログレス上演を観に行った。

鳥公園の『abさんご』2022/蜂巣ももチーム・ワークインプログレス
https://bird-park.com/works/ab-sango2022/?pid=hachisu

デザイン:鈴木哲生

おぐセンターの二階の壁や柱に、プリントアウトされた閻魔様の図像がいくつか貼り付けてあり、俳優はその前で演技する。生前の行いを裁く閻魔様の前で、『abさんご』の言葉はどのように聞こえてくるのか、というのが、蜂巣さんチームのしつらえだった。

藤善麻夕帆

『abさんご』の語り手が閻魔様の面前にいるということは、語り手はもう死んでしまっていて、地獄行きをまぬがれようとあの世の裁判所で弁明をしているということだろうか。そのセッティングが、わたしにとっては新鮮だった。『abさんご』の語り手が、だれかに許しを請うような殊勝さをそなえているとは思ってもみなかったのだった。あの語りは自己正当化なのではなく、語り手にとって自己はすでに正当であり、むしろ顎をツンとそびやかして晴れ晴れと地獄への道をゆくような傲岸さがあるように感じていた。ひとつのテキストに複数人が別々にアプローチしていくと、こういったズレがたくさん見えて、楽しい。
 
そう。このプロジェクトを立ち上げた西尾さんは、『abさんご』の文体が、近代的な個を解除するヒントになるのではないか、と言う。でも、自分が演出を担当したワークインプログレスも踏まえると、わたしは『abさんご』はすがすがしいほど徹底してゴリゴリの主観カメラ文体、だと思った。客観性を気取らないのが『abさんご』のいいところ。潔くあけすけに近代的個人上等、みたいな。

さて、蜂巣さんの取り組みに話を戻す。
『abさんご』という奇妙なテキストと、「死後に閻魔様と対面している」という興味深いセッティングと、俳優の演技や身体のあいだに、どのぐらいのインタラクションが起きていたのか。この短い上演だけでは、わたしにはつかむことができなかった。
わたしにとってのハイライトは、最初に鈴木正也さんが試みたパフォーマンスだった。小説冒頭の「受像者」というチャプターを、片足立ちで語る。地面から浮かせている方の足には、居酒屋の便所にそなえられているようなつっかけサンダルを履き、そのサンダルのつまさきに服をかけるハンガーを引っかけて、ぷらぷら危うく揺れるそれを落とさないように身体をぐらぐらさせながら発語する。
なるほど。しっかと両足で立っている、とは言いがたい幼い時代の、ままならないバランスごっこ。としての、『abさんご』。
観客席にいながら鈴木さんの呼吸に同期していくようなあの時間、『abさんご』と俳優の身体が接続できそうなチャンスを予感できた。

和田ながら

鈴木正也

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