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『昼の街を歩く』観劇レポート|三浦雨林

 こんにちは、鳥公園アソシエイトアーティストの三浦雨林です。
 今回は、西尾佳織作、蜂巣もも演出の『昼の街を歩く』観劇レポートです。公演概要はこちらからご覧ください。戯曲はこちらから購入可能です。


縁側

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 会場はPARAという、普通の民家。小さな門を通ると、すぐに縁側があり、4mほど砂利を歩いて玄関にたどり着く。縁側の外からは2階のベランダと、大きな窓が見えていた。古い小さな木造一軒家で何かが始まるという期待と同時に、劇場とは違った緊張感があった。(上演場所としての)劇場と言えど、見知らぬ家に入ること、家・物語の中に吸収されることへの緊張があったように思う。

 来場受付を済ますと、縁側の外で待つように指示される。私達観客は縁側の外から家の中を覗き見る形になっていた。

 幕(縁側の雨戸)が開くと、中の和室で俳優二人が横倒しの体制で縦に重なっているのが現れた。電気はついてなく、外光だけでぼんやりとその姿が見える。外にいる我々観客の明るさと、部屋の中の薄暗さのギャップが、この作品が語ろうとすることを暗示しているようだった。
 2人の奥に置かれているブラウン管のテレビは、どうやら車窓から見える景色を映している。おそらく2人は新幹線で移動しているようだが、横倒しの状態で縦に重なっているし、どうも空間が歪んでいる。ものすごく実存的な家の中に、時空の歪んだ二人がさも当たり前かのように居る。
 ポテチを食べる時には、「パリ、パリ」と高音で発語をしていた。戯画化された食べる行為は、生活感のある現実の家の中に浮遊するように消えていった。

 部外者だった私達観客が、この家の中の出来事を目撃をしてしまった後、ようやく家の中へと導かれる。招き入れられてるようには思えなかった。何か磁場のようなものが発生していて、それに一度乗ってしまうともう流れに任せるしかない。そんな風に部外者は家の中へ足を踏み入れさせられた。

リビング(1F)

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 玄関に案内され、通された一階の和室は、昼間でもほとんど日光が入らないようだった。昼間なのに外光が入らず、蛍光灯を浴びていると、なんだかちょっと鬱々とする。閉じ込められていて、外からは見えない・触れられない閉塞感を、空間の中にお客さんも入れ込むことによって体感させているように感じた。お化け屋敷やリアル脱出ゲームやインスタレーションといった、内側に観客を引き込むことで体感させるものになっていた。劇場のような、向こう側の世界とこちら側の世界が明確に別れていて、お互いに侵犯しあわない空間とは程遠い緊張感。
 実際、この二幕(と言っていいのかはわからないが)では、俳優と観客の距離が異様に近い。みじろぎひとつで上演に干渉してしまいそうなほどだった。フィクションとリアルの境界線が急速に曖昧になっていく。この家の中で、この人達(作品内の登場人物)を見ている私は何者なのか。ここまで家の中に入り込んで、ここまでこの人達の生活を目の当たりにして、私は何者なのだ。何としてここにいるのだ。お客さんでいていいのだろうか。間違えて踏み込んでしまったのではないか。同じ時間に同じ家にいるのに、コミュニケーションが取れないこの状況は何なのだろう。目の前にいるこの人達と私達観客は別のレイヤーにいるということ?

 そもそも演劇は、観客と演じ手が信頼しあわないと成り立たず、私はそれがかなり特殊な事のように思う。演劇だけでなく、舞台芸術全般に言えることだけれど、お互いがお互いの領域を理解し合い、共に作品の完成を遂行し、見守る。変なの。私たちはなんて言葉にならない、変なことをしてるんだろう。ということを考えていた。

板の間(2F)

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 二幕が終わり、3階に案内された。
 狭くて急な階段を登ると、日の当たる板の間に出た。階段を上がってすぐ右に、外から見えていたベランダがあり、左手から前にかけて二部屋の板の間が繋がっている。この板の間の端に、クリームソーダの上に乗っているアイスのような形状のバスボムらしきものがたくさん配置されている。現実感と生活感のある空間に突如現れた抽象的なモノ。縁側から続く、奇妙なフィクションとリアルの距離感がここで一気に開花したような印象を受けた。
 奥の部屋は二面がほとんど窓になっていて、開け放たれたそれらの窓から空や隣の家、電線に止まる鳥たちが見えた。閉鎖的な空間から、日光が射し風の通る空間になり、自然と体の緊張感も緩まる。縁側にいた時はジメっとした雰囲気を感じていたが、不思議とこの部屋はサラッとした諦めのようなものを感じた。縁側から1階の和室は「粘膜のような関係性」を感じていたが、2階ではそれが一変して「とは言え各々生活があるし、生きていかなきゃならないからな」というようなサラッとした諦め。諦めというか、粘度の高い悩みが空間と演技体によって風に晒されていたように思う。

 縁側ではちょっと座標を間違えてるくらいの塩梅で身体のあり方を歪ませ、リビングではこの場にあるモノや人や空間との距離感を歪ませ、板の間ではセリフのスピードと身体のスピードをズラすことでこの空間の時間を歪ませていた。
 上記のように、それぞれがかなり独立した演技体で、且つほとんど次の幕に持ち越されていないのが興味深く、また、マトリョーシカのように感じた。
 戯曲・言葉・身体という型は同じだが、ひとつひとつの模様や素材が大きく違うマトリョーシカ。
 また、空間においても入子構造が機能していたと思う。縁側>リビング>和室>自分の体>内臓>>>>>>。あるいはそのイメージは反転して、"ここ"を包んでいる外部が無限に後退していく。遺伝子<細胞<内臓<自分の体<この部屋<縁側<この街<この国<<<<<<…といったように、ここにいる私はどこまでも内部になりきれず、また外部にもなりきれない。そういった"周縁"のことを考えていくと、自分は内と外どちらの性質も持ち合わせていることになり、この作品で描かれていることと非常に強くリンクした。

 もっと大きなところでも見てみたいし、様々な空間で上演することで広がっていく作品ではないかと思うので、是非今後もいろんなバージョンでクリエイションが続くといいな、と願っています。

(鳥公園アソシエイトアーティスト 三浦)
※使用写真撮影 三浦雨林

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