公開相談会 Part2 第三回(ゲスト:酒井隆史氏)レポート - 鈴木哲生(鳥公園お盆部)
酒井隆史氏を迎えたこの回では、酒井さんご自身が多くの著作を翻訳したデヴィッド・グレーバーの議論を紹介していただきつつ、ゲスト聞き手の筒井潤さんと一緒にさまざまなトピックについてお話を伺った。グレーバーの人類学的知見の中から、現代の舞台芸術界、そのなかのいち小団体である鳥公園に、直接間接に参考になることはないものか? という気持ちで聞きはじめたが、議論はより広く一般的なスケールまで広がっていったように思う。
鳥公園にとっても、私の個人的な関心からしても、とくに重要な意味を持つだろうと思ったのは「プレイ」という考え方だった(ご紹介されていた著作を未読なこともあり、以下の話が厳密に正しいかは不安なので、そのつもりでお読みください……)。
曰く、今回のタイトルになった「権力・暴力」だが、それを腑分けして明確にしてみると、権力そのものというよりも、権力関係が永続的に固定して覆せない状態=「支配」こそが問題にすべき問題である。つまり、どうしても発生してしまう力関係、例えば契約主とフリーランス、演出家と俳優……を、いかに一定の時間・状況の中でのものに限定し、戦略的に反転できるようにするか、がキーなのだと。
じつは人類学的な研究から、先史時代の文明では反転可能性を強く意識した制度設計や社会慣習が広く実践されていた、ということが分かってきているとのこと。かなり実証的な説もあれば、仮説のレベルのものもあるだろうが、北米での狩猟の時にだけ権力を持つ社会集団の話、古墳やモニュメントがポトラッチの一類型であるという話など、どれも興味をそそられた。
私が腑に落ちたのは、それをSMサブカルチャーにおける「プレイ」の例で表現されていたことだ。SMサブカルチャー界には、世にも激しいプレイの最中でも、事前に設定したキーワードを言えば、すぐプレイを中断し、平等な社会人同士の関係に戻れる、という取り決めが存在する。この相互了解の制度設計がある限り、どんなに壮絶なプレイでも、それは「シリアス」な、つまりハラスメントや人格否定につながる支配関係に行きつかない。
これに説得力があるのは(私は現場を体験したことがないが)たとえSM「プレイ」だとしても、プレイ中にお互いが味わい、提供し、作り上げるものが、にせものの体験や何かの代替物ではないということが、実感としてわかるからだ。むしろ場合によってはそのような枠組みなくしては、心から求めている本当のもの、作り上げたい理想のもの、堪能するべき真の人生の味を享受することは難しいだろう。
例えば鳥公園の創作や議論に入る時に、これから取り組むことが「プレイ」であること、でもそれは現実の矮小化や「お遊び」ではない、という理解をメンバー間で共有する、ということがあってよいと思う。短絡的な発想で言えば、最初に一緒に行う準備運動のプログラムや簡単なゲーム、あるいはみんなに配る小さなハンドブックのようなもの、予告編のショートムービー(?)などを作っておく、ということでそれを実装できるかもしれない。
後半、筒井さんから以下のような指摘があった。
確かに創作集団のなかでそのような制度を設計することはできるかもしれない。一方で観客という存在を考慮に入れると、観客の多くには一人の才能ある作家か演出家を求める傾向があって、結果的に権力の集中と固定ということが外部から要請されるのではないか。
これに対しては酒井さんからご自身のノンセクトの経験、韓国でのアナキズム運動などの紹介があり興味深かったが、確かに「プレイ」とはまた違うなにかが、この指摘を乗り越えるために必要だと感じた。
今回のテーマは確かに創作の現場や内部に焦点を絞ったものではあるが、鳥公園での普段の議論に登場するのも、作家、演出家、スタッフ、俳優に限られがちであることにも気付かされた。そこに巻き込むべき「支援者」については次回の第4回「サポーター・コミュニティの形成とファンドレイジング」で、そして「観客」については最終回「海外の事例に学ぶ作品発表をゴールに置かない活動のあり方と団体の運営」で改めて議論したい、と思った。
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