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公開相談会 Part2 第一回(ゲスト:前原拓也氏)レポート - 西尾佳織(鳥公園主宰)

 第1回の「リソースとしてのレパートリー」では、ドラマトゥルクの前原拓也さん(現在ミュンヘンに留学中!)をゲストにお迎えした。私と一緒に聞き手としてご参加いただいたのは、大阪の劇団コトリ会議所属で、制作者・俳優として活動されている若旦那家康さん。

■テーマ設定の理由

 レパートリーシステムについて知りたいと思った理由は主に二つあった。

①鳥公園でも、レパートリー作品を持ちたい
 そうすれば、どんどん新作をつくり続けて製作費を回収できない状態を是正できるのではないか?(一度つくった作品を複数回上演できれば、金銭的にもプラスになるのではないか?)そして、創作面でも作品・アーティストともに成熟が可能になって、それが観客の鑑賞体験の深まりにも寄与するんじゃないか?

②そもそもレパートリー作品をつくって、それを回していくことが可能な組織のあり方がどうなっているのか、知りたい
 なぜなら、ほとんど一人のアーティストの「やりたい!」に依拠して進められる創作・興行・団体運営は、ピュアだけど脆くて危ういと感じているので。
 インディペンデントで浮動的な個人のアーティストとは別に、〈劇場〉という主体があって、その意思によって年間のプログラムが組まれていること。個々のアーティストとは異なる専門性・尺度・時間的視座によって、「いま提示され共有されるべき文脈」が編まれていること。……が、日本にはない、けどドイツにはあるのでは??
 (そういう複層性があって初めて、個々のアーティストは自由な意思を発揮できると思う。私の体感できる範囲では、日本の劇場は文脈をつくる力が弱いと思う。アーティストが、作品づくりと文脈づくりをそれぞれに、ゲリラ的に行っている印象。それはしんどいしなかなか上手くいかない。)
 (ちなみに、主体としての〈劇場〉が弱いことと、権力のあり方の問題もつながっていると思う。例えば芸術監督は、任期付きで任命された立場だからこそ、自分の意思・判断を全力で実行していけるんじゃないだろうか。)

 ……しかし、私が「ドイツの公共劇場におけるレパートリーシステム」に抱いていたイメージは、前原さんのお話をうかがってけっこうガラガラ崩れていくことになった。

■前原さんのお話

(以下の内容は、ドイツ舞台芸術協会のwebおよび刊行物と、ミュンヘンのレジデンツ劇場ドラマトゥルギー部部長アルムト・ワーグナーさんへのインタビューから)

・ドイツ全土に約140の公共劇場がある。
・劇場予算の約7~8割が税金でまかなわれているが、行政からの介入はほぼない(ナチス時代の反省から)。
・多分野劇場(オペラ・ダンス・演劇の三部門が一つの劇場に入っている)が多い。ただし、大都市の場合はオペラ専門の劇場など個別になっている場合も。
・劇場で、パフォーマー(オペラ歌手・ダンサー・俳優)が月給制で公務員のように雇用されていて、「アンサンブル」と呼ばれる。テクニカルスタッフやドラマトゥルギー部の人たちも雇用されている。

レパートリーシステム
一つの作品を、一年の間に何度も上演する。毎日ちがう作品を上演するので、例えばアンサンブルの俳優は、昼間にドイツ現代戯曲のリハーサルをして、夜に『ハムレット』を上演。翌日の昼間にまた同じ現代戯曲のリハをして、夜には『三文オペラ』を上演したりしている。

レパートリーの定義
「雇用されたアンサンブルを持つ劇場の、公演予定表に載っている、稽古をしていていつでも呼び出せる作品の全体」(Rowholt社の演劇辞典より)

→芸術監督とドラマトゥルギー部が「いま上演すべき作品」という観点でラインナップを決めるのかと思っていたが、それだけではなく、俳優のやりたい企画、演出家(劇場に雇用されているわけではなく、フリーで、個々のプロダクションごとに依頼を受ける)のやりたい企画もやっている。また、アンサンブルのステップアップという観点から、「どの俳優も、適切にいい役がもらえているか?」が重視されているということに驚いた。
→「いい作品になったらレパートリー化する」のではなく、基本的にすべての作品をレパートリーとして製作する。そしてどんなにいい作品でも、最大5年程度で終わりになる。
→次のシーズンに残されるかどうかは、集客が見込めるかどうかが重要とのことだが、2年目で客席が20%くらいしか埋まっていないようなこともある(1年目は大体チケットが完売する)。

⇒レパートリーシステムのおかげで、劇場で働く人が安定的に雇用されている。また、毎日違う作品を上演し続けることは、アンサンブルの能力向上に大きく寄与している
⇒税金で支えられている安心感から、「観客にウケるかどうか」を気にせずプログラムを決められる/「観客の観たいもの」と乖離していく危険もある。
⇒毎日違う作品を上演しなければいけないことは、コスト的にはものすごくしんどい
⇒劇場を毎日開けること=毎日違う作品を上演することが至上命題になってしまって、全然客が入らない状態で開け続けているのを見ると、どうかと思うこともある。創作現場のモチベーションが薄れていても上演している、という状況も(特にオペラで)見かける。

多くの演出が上演される作品はどういうものか(2018/19シーズンの場合)

※前原さんのスライドより(禁転載)

 1位、2位、5位、9位にゲーテ、シラー、レッシングの作品が入っている! 前原さん曰く、古典を新しく解釈して、現代の観客に届けることが、ドイツの伝統的な劇場の使命のひとつ。でも、同じ演目をちょこちょこ演出を変えて何度も上演しているだけじゃ、時代についていけないのでは?という批判もある(特に劇作家からは文句も多い)、とのこと。

 たしかに劇作家からしたら、「古典ばっかやってないで、うちらの新作やってくれよ!」と思うだろう。気になったので、黄色の作品(1945年以降の区分。新しめのものはここに入る)のそれぞれが、いつ、誰によって書かれた、どんな作品なのか調べてみた。

■最近書かれた戯曲の上演について、調べてみた

3位『チック』(18演出)
 ヴォルフガング・ヘルンドルフによる児童文学を、ロベルト・コアルが上演台本化したもの。2011年初演。2017年に小山ゆうな演出で、世田谷パブリックシアターでも上演されていた

4位『Judas』(17演出)
 Lot Vekemensというドイツの劇作家、小説家、脚本家の戯曲。2007年初演。この作家のビブリオグラフィーを見てみた。2023年に書かれた『BLIND』という戯曲以外は、たぶん上演された場所(?)が書かれているので、この作家の作品はほとんど上演されている(上演が決まった状態で書いている? 書くだけ書いて、上演されていない作品はほとんどない)んだなあと思った。
 それにしても、2007年世界初演の作品が、2018/19のシーズンにも17の異なる演出で上演されているというのが、どうやってそういうことになるのか、何だか想像できない……。

8位『テロ』(12演出)
 フェルディナンド・フォン・シーラッハというドイツの小説家、弁護士の戯曲。この作品の初演リストを見てみたら、2015年だけで、10月3日にベルリンとフランクフルト、10月16日にバーデン=バーデン、10月17日にゲッティンゲン、10月18日にチューリヒ、11月6日にシュトゥットガルト、11月12日にアーヘンで上演されていた。同じ日にベルリンとフランクフルトで世界初演を迎えているということは、少なくとも二つのプロダクションが同時に動いていたということだよね? ドイツ語圏の土地勘がまったくないので想像ができないけれど、10月16日~18日の3公演を二つのプロダクションで回ることが果たして可能なんだろうか?(ほぼ乗り打ち?)あまり現実的じゃなさそう、、ということは、三バージョンの演出が同時につくられている??
 2016年になると、10月8日と10月14日にそれぞれ三カ所で初演があるので、確実にプロダクションが三つ以上に増えている。(でも、たぶんもっとたくさん動いていたのだろうと思われる。)2016年8月には東京と兵庫でも上演されていた。
 2018/19シーズンは、2018年9月~2019年8月で合ってるだろうか? だとしたら、15カ所で初演が行われていて、それが12の異なる演出による上演だったということになる。

⇒世界初演の年に、すでに複数の演出による上演があるということは、劇場&個々のプロダクションの演出家等は、どういうタイミングでスケジュールを組んでいるんだろう???

同8位『エブリ・ブリリアント・シング』(12演出)
 ダンカン・マクミランというイギリスの劇作家・演出家の戯曲。2013年初演で、エジンバラ・フェスティバルで複数回チケット完売が続いた(?)作品だったっぽい。

9位『セールスマンの死』(11演出)
 アメリカの劇作家アーサー・ミラーによる戯曲で1949年初演。「1945年以降の作品」という区切りだと、アーサー・ミラーも「わりと新しめ」の枠に入るのね、と、公開相談会でも話題になった。

■まとめ

 前原さんのお話にはこの他に、「レジデンツ劇場における今シーズンのラインナップ紹介」、「統計から見る、レパートリー作品における近年の傾向」や「劇場が劇作家に新作戯曲を委嘱する場合にどのようになっているか」といったお話もあったのだが、長くなってきたのでここでは割愛する。
 (ちなみに、レジデンツ劇場の2023/24シーズンのラインナップでは、新作戯曲の上演は18作品中2本だった。もしもドイツ語圏にある約140の公共劇場全てで毎年2本ずつ、劇場から劇作家に委嘱されて執筆された新作戯曲が上演されるとしたらすごいことだと思うけど、実際どうなんだろう?)

※前原さんのスライドより(禁転載)

 事前に想像していた、「レパートリーシステムを採用すれば、新作をつくるのにかかるコストを回収できるのでは?」というのは全くの間違いで、むしろレパートリーシステムは劇場の経済状態を圧迫しているということが分かった。私は、劇場にとっては「レパートリー作品が財産」で、財産を生み出すためのシステムとしてレパートリーシステムを採っているのかと思っていたが、実際には「そこに働く人(アンサンブル)が財産」で、レパートリーシステムは「働く人の健全なステップアップに資するシステム」なのだと理解した。
 舞台芸術における価値は、そこで働く人の専門的な技能や経験から、生み出される。だから劇場が、その技能や経験を涵養するために必要なリソースを投じるのは、当たり前に必要なことだと思う。でも日本の場合、そこは劇場が担っているわけではなく、ほぼ個人任せ(少し前の時代は劇団任せ)になっている。そして各自である程度育って、成果が生み出せる状態になって初めて俎上に載せて「もらえる」、というのが私のここまでの体感だった。(そういう意味で、劇場もキュレーション的な機能は担っていると思うけれど、涵養する・生み出す部分を今後はもう少し、特に公共劇場に、期待したい。)

 「劇場がレパートリーシステムを採ること」と「劇団がレパートリー作品を持つこと」は、似ているようで全然違うと思った。ドイツの公共劇場と鳥公園では何もかも違い過ぎるので、レパートリーシステムをそのままやってみることは当然できないし、鳥公園はカンパニーであって劇場ではないので、システムづくりを第一に考えると何かがおかしくなってくる。でもそれはそれとして、鳥公園でレパートリー作品を持つことは考えてみてもいいんじゃないだろうか?

 「雇用されたアンサンブルを持つ劇場の、公演予定表に載っている、稽古をしていていつでも呼び出せる作品の全体」というレパートリーの定義を、もう一度考えてみる。前原さんは、
・場所と結び付いている
・人が雇用されている(その場所に、必要な人がそろっている)
・いつでも呼び出せる
・公演予定表に載っている
を「劇場のレパートリー作品」の条件として挙げていた。

 この中で、小さなカンパニーのレパートリー作品に必要なのは「いつでも呼び出せる」ことではないか? 「いつでも呼び出せる」ためには、他の条件がどうなっているといいか考えてみるに……
・どこでもやれる
・最小限の人でやれる
(例えば、俳優一人のみで、音響、照明、舞台美術は必要最低限。可能であれば、俳優自身が操作できるか、俳優+それほど専門技術のない人一人程度で操作できる)
・「公演をやること」をほぼその最小限の人だけでパッと決められる=権利関係が複雑でなく、許可を取ったり、お金を払ったりする関係者が少ない

 もう一点、前原さんのお話の中で重要だと思ったのは「劇場の作品のために人がいる」のではなく「劇場=人で、そこから作品が生まれる」ということ。「専門性を持った人材が、健全に適切にキャリアを積んでいける環境は、作品が生まれるための必要条件である」という認識が前提になっていること。
 そこから考えて、俳優が自分の意思で扱える=俳優の財産になるような作品を構想できないか?と思った。企画が先にあって、「呼ばれ」て、「参加」するのではなく、俳優が握れる作品。

 これについては、今後鳥公園で引き続き考えてみたいと思う。

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